第285号 奇跡の一本松

2024-09-30
第285号 奇跡の一本松
writer:新 妻 吾 郎    

 お盆に私の母方の伯母が山形県と宮城県で入院しているので家族を連れて、お見舞いに行って来た。やはり8月の東北も酷暑だった。そのついでに岩手県にも足を延ばしてみた。このリアス式海岸地域には色々と思い出がある。以前の三和新聞でも書き連ねたが大学時代にママチャリで北海道から東京まで帰り、行く先々で人に助けられた事。今から13年前に起きた『東日本大震災』で物資を愛知県から宮城県まで送り届けた事。(三和新聞 第33号・第124号)自分の文面を読み返して「あぁ…そうだったなぁ…」と感慨深いものがある。今回はそんな過去を振り返りながら、前へ未来へ進もうと思う。

 三和新聞 第33号『小さな冒険』の中でも少し触れているが、確か宮城と福島の県境辺りだったと思う。テント泊まりも疲れてきたので今日は宿に泊まろうと…道端でウ〇コ座りしてたむろっている、見るからに『不良です!』って感じの5~6人の高校生男子に声をかけた。「この辺で泊まれるトコないかな?」先に述べたがスマホなんて便利なモノは存在しない。足で稼ぐしかないが足は多い方が良いし土地勘もある方が良いと思い頼んだら~思いの外、素直に探してくれた。ただ、お盆中でドコもいっぱい。そして突然!バケツを引っくり返したような雨が…「御免!帰ります!」と1人また1人と…そんな中、最後まで探してくれた『ヤス君』に「ありがとうね!もう帰っていいよ。」と。すると「もう一軒だけ!」と探してくれた一軒が、ひと部屋だけ空いていた!私は感謝感激し「一緒に晩飯、食べないか?」と誘ってみた。「母ちゃんに聞いて来る!」とビッショビショの学ランで帰った『ヤス君』は私服に着替え、夕飯を共にした。それぞれの生活や今回のママチャリ旅の話、将来なりたいもの…色々な話をして「ビール呑めるだろ?」とビールも酌み交わした。←お互い未成年なのに。「吾郎さんは明日、何時に行くの?」「8時くらいかな?」そんな会話を最後に、その日は別れた。翌朝『ヤス君』は宿の玄関先に立っていた。「昨日はありがとう!コレ母ちゃんから!お昼に食べて!」お互い住所交換をして「帰ったら手紙と写真送るよ!」と、当時はフィルム写真なので現像しないと…。昼時、もらった小包を開けてみた。握り飯3個とおかずと手紙が入っていた。読むと『昨晩はヤスがお世話になりました。吾郎さんは、きっと良い方なのでしょうね。帰って来て、あなたの事を話すヤスの瞳は、ここ最近では見る事のなかった輝きに満ちていました。どうぞお気をつけて…』と読みながら食べた握り飯は私の涙で少し、しょっぱかった。そして無事、東京へ帰って文通を2~3回繰り返したが~今は遠く…良い思い出だ。

 同じ新聞の第33号『小さな冒険』の中で詳しく書いたロハ(無料)のキャンプ場で大人の方々に飯を御馳走になったのは、岩手県の『明戸(あけど)キャンプ場』である。あの懐かしい景観に出会える♪と胸の高鳴りを抑えつつ行ったのだが、景色は一変していた。素朴なホントに何もないキャンプ場が綺麗に整備されていた。管理人の方に伺うと「東日本大震災でねぇ…ここも被災して全部、建て直したんですよ」と。そして「陸前高田の一本松が有名だけど明戸にも津波を耐えた一本松があるんですよ!」と。被災前は二本松で並んで立っていて『夫婦松』と呼ばれていたそうだが、被災し一本は流され『明戸の一本松』となった様だ。

 三和新聞 第124号『心は、ひとつ!』は是非、三和WEBのバックナンバーで読んで頂きたい。ただ稚拙な文面で、お恥ずかしい限りだが。(今もあまり変わらんが…)明戸から南下して陸前高田の『奇跡の一本松』にも会ってきた。それは『津波復興祈念公園内』に佇(たたず)んでいる。私が、ここを訪れるのは2回目だ。もうすぐ9歳になる長女には、13年前ここで何が起こったのかを全て話した。娘は娘なりに理解をした様で、ずっと泣いていた。私は七万本の松原に大津波を受けても、たった一本だけ残った奇跡の松をジッと見上げながら、震災当初にこの地を訪れたことを思い出し…どんなに困難が押し寄せようともグッと地面を踏み締めて一本松の様な強く揺るがない心を・・・・・と、誓った。
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