Archive for the ‘三和新聞’ Category
第289号 プロジェクト K
第289号 プロジェクト K |
writer:小 谷 野 一 彦
年が明け、早くも1か月が過ぎた。今月の三和新聞の発行日、2月3日は『立春』で春の始まりである。色々なことが起こった2024年ではあったが立春と耳にすると、ここからは成長とプラス思考で考えを切り替えていこうと思う。決意はさて置き、昨年から某自動車メーカー『安全衛生協力会』の幹事会社として三和機工は指名された。担当者候補として私含め三人いたが他の二人が結託し公平なジャンケンもないまま私が選出された・・・。

因みに私は某メーカーなどで必要な安全衛生の資格は無い・・・「安全衛生に無知な人間が?」と誤解されたくないので言っておくが、私は第一種衛生管理者の資格を保有し安全管理責任者の講習も受けているのでご安心ください。右も左もわからないまま会議に出席すると様々なメーカーの方が揃い大きくは我々のような『設備メーカー』『施設関連メーカー』『商社請負メーカー』で構成され協力メーカー主体の活動となっていた。活動としては工事災害が発生しないようルールが守られているか、安全な作業環境であるかなどパトロールして安全作業の維持継続に努めている。パトロールは自動車メーカーの広い敷地屋内外全域が対象のため、数キロを歩いて回ることとなり特に夏季連休パトロールは汗だく状態で特にキツかったが実際工事されている方の暑さは比較にならず、営業畑で働いている私には現場の環境を肌で感じるよい機会となっている。またパトロールでは作業そのものの確認も行うが、特に関係書類に記載されている『工事内容』『工事日程』『責任者名』『KY(危険予知)実施記録』など念入りに行う。営業としてこれらの書類の記入を担当したこともあるが「細かいな~面倒くさいな~」と感じるばかりか不謹慎ではあるが「適当に書いとくか~」とも思っていた・・・大いに反省である。
どんなに注意していても災害が発生する事はあるが、リスクを最小限に抑える上で工事計画を綿密に立てることは重要だ。無災害で工事を終えることを目標として作業内容を細かく把握し1つ1つの作業リスクを考え帳票に記載していく、この計画で工事全体の作業が整理され限りなく無災害工事に近づくのである。時に未記載箇所を指摘すると工事担当者から睨まれたりすることもあるが、無災害を目指す協力会の一員として心を強く持ち毅然とした態度を心掛けている。幹事としての任期はあと3年あり私の座右の名である【大学進学】つまりは【大いに学び進んで学ぶ】を心掛け、学んだ知識を社内にも展開できるよう努めるつもりである。
話は変わるが私は昨年末でついに還暦を迎えた・・・年明けの1月3日卒業した中学の同窓会が行われた。私の通った中学は超マンモス校で1学年15クラス600人越えの学校だったが今回の参加者は3分の1の約180人が集まった。しかしその中で顔と名前が一致する者は、その1割程度で私の記憶力が問題かとも思ったが…パンパンに膨れ面影がなくなった者、髪が後退を超え面影が消えた元モテ男、名前やエピソードでやっと「お~お前か~!」と思い出せたので記憶力は今のところ大丈夫と安心し、みんな随分と年を重ねたな~と実感した。どちらかと言われれば私は「若いね~」と言われる側と思っているし同級生からも「変わらんね~すぐわかったヨ♪」と言われ勲章を得た気分にもなれた。ただ同級生たちの話はどこに顔を出しても『不健康の自慢話』や『引退を決め悠々自適の自慢話』中には、いまだ『現役絶倫自慢』をする奴もいて45年ぶりに会う面々の楽しい会であった。これからみんなどんな暮らしをしていくのかわからないが、もし数年後に同窓会が開かれればその時も「変わらんね~♪」と言われたい。そのためには老害にならないよう恩師が言われていた社会に触れ続ける日々を生涯続けていきたいと思う。どうかこの記事を読んでいただいた皆様!もし私が弱気に見えたら遠慮なく私の老体にムチを打ってください!これが私の生涯計画!
第288号 三和機工と私
第288号 三和機工と私 |
writer:渡 邉 啓 史
明けましておめでとうございます。本年も何卒宜しくお願い申し上げます。昨年もあっという間に時が経過し、毎年のように1年がとてつもなく早く通り過ぎていきますね。私だけですかね?年始めの新聞記事となりますので、昨年の振り返りや今年はどうなのかなどの記事になるかと思いますが、今回は『三和機工と私』それと『今年の目標』を書かせていただきたいと思います。私も今年ついに50歳となります。三和機工株式会社も今年、創立50周年を迎えます(ある意味、同級生ですかね!)三和機工は私が小学生の頃からお世話になっていて、とても親近感を持っています。何故かと申しますと私の母親も三和機工で働いている期間があり、幼少期の私は夏祭りや家族旅行に参加させて頂いていたからです(皆さんびっくりですよね!)

小学5年生の時にバス旅行に参加させて頂いた時の事は今でも鮮明に覚えています。バスの中でゲームウォッチを夢中になって遊んでいた私ですが後部座席でカラオケ大会が始まり、飲めや歌えや大盛り上がりの大人達を見て何だか分からなかったですが、凄い世界だな・・・と感じた記憶があります。当然ながらお酒が進むにつれてトイレ休憩の雨あられとなり、何回休憩を取るんだ!と子供ながらに心のツッコミを入れた記憶がありますが、あの時に比べると今はみんな紳士的に飲めるようになったなと感じております。また自宅が会社に近かった事もあり学生時代の通学時などは出勤途中の方が声をかけてくれたりと皆さんとても親近感を持って接してくれていたことを思い出します。そして私もご縁があり三和機工に入社させて頂きました。面接時には「大きくなったな!」と当時の上層部の方々から声を掛けて頂き幼少期の思い出を話した事を覚えています。
入社してからは、この三和新聞にも書かせていただきましたが量産製造部に18年在籍し、2011年からは営業部に配属され2020年からは営業部と総務経理部を兼務するようになりました。50年間という同じ年月を過ごしてきた三和機工は私にとって思い入れが強く、会社の成長と共に私も成長させていただきました。勤続して32年!時代の移り変わりで1世代目の先輩方から今の私たち50代世代に代わり、そして次の世代へのバトンの受け渡しがしっかり出来るように私達が指導して次世代を担う後輩たちが成長できる環境作りをしていきたいと切に思っている次第です。
話は変わりますが、年始めに皆さん今年こそは!と目標を決められる方も多いと思います。私も毎年のように目標を定めるのですが、その年が終わると結果、毎年変わらずの状態で目標も達成出来ずに終わってしまいます。50代1年生をスタートするにあたり、目標をもって行動していきたいと思います(かれこれそう思ってもう何十年も同じような・・・)今年の目標をここで掲げる事で有言実行をしたいと思っています。まず趣味の所では先月もO課長のウルトラマラソンの記事がありましたが、私はウルトラまではまだ自信が持てないのでマラソンを続ける事と『サブ3.5』を達成したいと思っています。サブ3.5とはフルマラソンを3時間半、切って走る事です。計算すると1kmあたり4分58秒で走らないといけない事になります。私の経験からして最低でも月間200km以上走る事と、ある程度のスピード練習をしないと達成が出来ません。一般ランナーの中でも達成出来る割合は約1割となります。私の自己ベストは3時間40分なので、あと10分!今年こそは達成できるよう頑張りたいと思っています。マラソン練習の一環でトレラン(トレイルラン→山を走る)やマラニック(マラソンとピクニック)、登山など楽しいイベントを今年はやっていきたいと思いますので、興味のある方は一緒に楽しみましょう!
次は健康についてです。20~30代で健康に気を使っている方が増えてきているとよく耳にします。皆さん健康には気を使ってくださいね!私も今年は血圧を下げる努力をしたいと思っています!数年前から毎回、健康診断では高血圧と診断されています。まだ薬まで飲んでない状況ですので今年の健康診断では何とか正常値まで戻せるようにしていきたいと思います。何か良い方法があれば皆さん教えてください!最後はコミュニケーションをとる事です。仕事やプライベートでも話し合える環境作りをしていきたいと思います。今年の皆さんの目標はどうでしょうか?目標がないと前へ進むことも出来ませんが、やるもやらないのも自分次第ですから、今年1年!自分の目標に向かって突き進んでいきましょう~♪
第287号 NO LIMIT!
第287号 NO LIMIT! |
writer:太 田 敏 浩
12月は陰暦で【師も走る】と書いて『師走(しわす)』と云われるように本格的なマラソンシーズンの到来になります。(師走の由来には諸説あります)マラソン大会に参加する目的は
【1. ストイックにタイムを追い求める】
【2. とことんエイドステーションを楽しむ】
【3. コースや景色を楽しむ】
といったところが周辺でよく聞く話です。私のマラソン大会に参加する目的は前述の3項で比較すると3>1>2の順になります。

秋になってコース重視で10月に横浜マラソン、11月に千葉アクアラインマラソンに参加しました。横浜マラソンはランドマークタワーをスタートして『みなとみらい』→『山下公園』→『首都高速』→『赤レンガ倉庫』を結んだお洒落なコースでした。首都高速の料金所をランニングで通過できるのはマラソン大会ならではの醍醐味でした。折り返し地点から見えたランドマークタワーの小ささに絶望した記憶も今ではいい思い出です。千葉アクアラインマラソンは2年に一度開催される大会で木更津からアクアラインを走って『海ほたる』で折り返して木更津の街中を走るコースです。アクアラインからはランニングしながら東京湾が見渡せて、これまたマラソン大会ならではの体験が出来ました。練習不足で海ほたるを折り返してからは景色を楽しむ余裕が無くなったことが残念でした。いずれの大会も夏の練習不足でタイムはベストに遠く及ばない結果だったことを付け加えておきます(泣)
そんなマラソンへの取り組みの中で今年の重大ニュースは【ウルトラマラソン】(42.195kmの距離を超えるマラソン)に参加したことです。お客様のランナー仲間に誘われて『富士五湖ウルトラマラソン』と『飛騨高山ウルトラマラソン』に参加してきました。ウルトラといえば聞こえがいいですが参加したのはビギナーコースで富士五湖ウルトラマラソンは五湖ではなく実際は三湖で62キロ、飛騨高山ウルトラマラソンは71キロです。フルマラソンが余裕で走れるわけでもないのに何故、参加したのか。それは長くても6時間程度で終わってしまうフルマラソンに物足らなさを覚えていたからです。ウルトラマラソンならより長時間楽しめる(苦しめる←ドⅯか!)と前々から興味がありましたが雲の上の大会だと思っていました。しかし実際に参加して完走した方に体験談を聞けたことで恐怖心を好奇心が超えてしまいました。
さてウルトラマラソンですが何とか楽しめるのは30キロまでです。そこから半分以上の距離を禅問答のような自分との闘いが続きます。歩くのも辛い中、それでも前に進むのは周りにゴールを目指す同志がいることです。周りのランナーの頑張りを励みに気合を入れ直して走り出します。すると自分の限界を超えたと思っていても、まだまだ走れる自分に驚きました。歩きと走りを繰り返しながら段々と歩く比率が上がっていきますが、足が痛くてたまらなくても我慢して走ると乳酸が散って楽に走れる時間が訪れます。今までの限界が限界ではなくなった瞬間です。ウルトラマラソンに参加してよかったことは自分の限界は、まだ未知数だということが実感出来たことです。そして何よりランニングフォームを崩さない体つくりが大事だということです。
正しいフォームは正しい姿勢からということで、まずはデスクワークで陥りがちな『反り腰』と『猫背』の矯正です。反り腰を直せば普段の歩きが楽になるし、猫背を直せば呼吸が楽になって酸素がたくさん摂取できるので元気が出ます。皆さんも騙されたと思ってやってみてください。そして最大の敵は自分の脳です。「痛いのは気のせい!」コレは森脇健司さんのセリフですが、脳は自分を守るために【限界スイッチ】を押しがちです。それを気のせいにして振り払う姿勢を身につけたいものです。脳トレって大事!
ウルトラマラソンに参加して【走ること】と【機械を作ること】は似ているところがあるなと感じています。与えられたパーツをいかに無駄なく動かすかは自分の体も機械の装置も同じです。上手くいかない場合は改善して作り上げていかなければなりません。その道程が辛くて苦しい程に上手くいった時の感激はひとしおです。これからもエンジニアの端くれとして【走ること】も【機械のこと】もパフォーマンスの限界を探求していきたいです。そんなわけで今シーズンは飛騨高山ウルトラマラソンの100キロにエントリーしました。来年は胸を張ってウルトラランナーだと言えるように限界の高みを目指したいと思います!!
第286号 THE昭和!15の夜♪
第286号 THE昭和!15の夜♪ |
writer:新 妻 吾 郎
最近TV番組で『令和⇔昭和』と、韻を踏んでいるせいなのか?『平成』を飛ばしてフィーチャーされる事が多いように思える。それは当時、流行した楽曲はモチロンの事!『昭和あるある&昭和では当たり前』のような文化や様々な『昭和』という時代の様相が今の世代にショッキングでもあり、また面白いからであろう。そんなTVを観ると「あ!そうそう!懐かしぃ~♪」と思い出に浸る。さて今回は『THE昭和!15の夜♪』と題してみた。『15の夜』と聞けば『尾崎豊』さんをスグ!思い浮かべられる方は、間違いなく昭和生まれの方だろう。私も彼のデビュー当時、1983年12月1日にシングル『15の夜』とアルバム『十七歳の地図』にドンピシャに、どハマりして中高の教室の机に乗ってはモップをスタンドマイク代わりに熱唱したものである。…もう41年も前の話なんやなぁ…

「盗ぅ~んだバイクで走り出す♪」というサビの、今で言う『キャッチ―』な歌詞は当時の若者の心を鷲掴みにした。間違いなく私もその一人である。しかし当時の私の移動手段と言えばバイク…と言っても『原動機付自転車』いわゆる『原付』だった。つまりは50㏄のスクーターバイクである。コレが来年の2025年『道路運送車両法』の改正により『新基準原付』となる。細かい改正は端折るが、簡単に言えば50㏄が無くなっていき125㏄が主流になるという事である。って、事は『二段階右折』もなくなるの?125㏄なら『2人乗り可能』なの?と憶測が飛ぶが、これは総排気量よりも最高出力(簡単に言うと馬力)の問題のようで、それぞれに細かい規定があって…面倒な話になって来るので~もう割愛する。
尾崎豊さんがデビューされた1983年に時を戻そう。冒頭、お伝えした様に41年前の私は15歳だった。ご紹介した歌詞の様に「盗ぅ~んだバイクで走り出す♪」を、私は『地』で行っていた。つまりは「盗ぅ~んだバイクで走り出していたぁ♪」…である。もう41年も前だから…エエやろ、と勝手に判断。昔のスクーターバイクはとても【直結方法】が簡単だった。『直結』とは、つまり~鍵(キー)が無くてもエンジンをかけられる事であり…「盗ぅ~んだバイクで走り出す♪」事が簡単であり、しかも!ノーヘル(ヘルメットを被らない)でOKな時代であった。まさに【THE!昭和】である。当時…犯した私の罪は41年経った今よりも前から、海よりも深く反省している限りである…。
さて、その当時!何故か千葉県なのに『東京~なんちゃら』なるモノが出来る!と噂が流れて来た。噂を聞いたら『百聞は一見に如かず』である。我ら精鋭?5~6名?は、まさに「盗ぅ~んだバイクで千葉まで走りぃ♪」出していた。モチロン『原チャリ』なので高速ではなく下道を時速60キロ!アクセル全開で凍てつく真冬の闇夜を駆け抜けて行ったのである。目的地に到着すると~ココが目的地なのか?というほど暗く、埋め立て途中なのか?…本当に合っているのかさえも分からなかった。単なる工事現場の一角を匍匐(ほふく)前進で入り込み足場が組まれた所を登って行き「ココでイイんだよね?」と確認し合うも誰も分からず…取り敢えず拳を夜空へ突き上げて「やったー!」と叫んだ瞬間!サーチライト(懐中電灯の大きいヤツ)を当てられて「ヤバい!」…また、そそくさと匍匐前進して帰って来たのである。暫くして、その千葉にある『東京~』のテーマパークは開園した。開園してチョットしてから正規なエントランスから当時1デーパスポート3,900円をちゃんと払って入園した。←当たり前。パーク内を少し歩くと…あれ?っと…見たことあるシルエットが目の前に。それは…【宇宙の山】だった。アレ…だったのかぁ~という『15の夜』だった。
今や大阪にあるテーマパークと千葉にあるのに『東京~』はチケット代も高騰し続けファストパスも無くなり【世の中、金や!】と言わんばかりに、あれ?【夢の国】はドコ行っちゃったの?状態である。…さて『夢の国』を荒らした?私が言うのも、おこがましいが…『夢の国』を作られた偉大な偉人の名言に次の言葉がある。『ディズニーランドは永遠に完成しない。未完成である。何故ならば、この世界に想像力が残っている限り成長し続けるからだ』と。荒らしておいて、本当になんだが(大汗)…あやかりたい。
第285号 奇跡の一本松
第285号 奇跡の一本松 |
お盆に私の母方の伯母が山形県と宮城県で入院しているので家族を連れて、お見舞いに行って来た。やはり8月の東北も酷暑だった。そのついでに岩手県にも足を延ばしてみた。このリアス式海岸地域には色々と思い出がある。以前の三和新聞でも書き連ねたが大学時代にママチャリで北海道から東京まで帰り、行く先々で人に助けられた事。今から13年前に起きた『東日本大震災』で物資を愛知県から宮城県まで送り届けた事。(三和新聞 第33号・第124号)自分の文面を読み返して「あぁ…そうだったなぁ…」と感慨深いものがある。今回はそんな過去を振り返りながら、前へ未来へ進もうと思う。

同じ新聞の第33号『小さな冒険』の中で詳しく書いたロハ(無料)のキャンプ場で大人の方々に飯を御馳走になったのは、岩手県の『明戸(あけど)キャンプ場』である。あの懐かしい景観に出会える♪と胸の高鳴りを抑えつつ行ったのだが、景色は一変していた。素朴なホントに何もないキャンプ場が綺麗に整備されていた。管理人の方に伺うと「東日本大震災でねぇ…ここも被災して全部、建て直したんですよ」と。そして「陸前高田の一本松が有名だけど明戸にも津波を耐えた一本松があるんですよ!」と。被災前は二本松で並んで立っていて『夫婦松』と呼ばれていたそうだが、被災し一本は流され『明戸の一本松』となった様だ。
三和新聞 第124号『心は、ひとつ!』は是非、三和WEBのバックナンバーで読んで頂きたい。ただ稚拙な文面で、お恥ずかしい限りだが。(今もあまり変わらんが…)明戸から南下して陸前高田の『奇跡の一本松』にも会ってきた。それは『津波復興祈念公園内』に佇(たたず)んでいる。私が、ここを訪れるのは2回目だ。もうすぐ9歳になる長女には、13年前ここで何が起こったのかを全て話した。娘は娘なりに理解をした様で、ずっと泣いていた。私は七万本の松原に大津波を受けても、たった一本だけ残った奇跡の松をジッと見上げながら、震災当初にこの地を訪れたことを思い出し…どんなに困難が押し寄せようともグッと地面を踏み締めて一本松の様な強く揺るがない心を・・・・・と、誓った。
第284号 残りの時間を楽しく生きる
第284号 残りの時間を楽しく生きる |
writer:彦 坂 訓 克
厳しい残暑が続いていますが、熱中症や夏バテなどされていませんか?今年の夏は福岡県太宰府市で最高気温35度以上の猛暑日が32日連続となり、気象庁の観測史上で国内の最長記録を単独で更新中とのことです。年々暑さが厳しくなっていく夏を今年も乗り切ることは出来るのだろうか?と思いながら暑さと戦って過ごしていますが、この歳になってくるとやはり昔ほど何をしても無理が利かない、体力が続かない、疲れが取れない等の高齢者予備軍となっているのは否めません。とくに最近では今まで過ごしてきた時間より、これから残された時間をどうしていくのか?何をしていかなければいけないのか?という思考というか思いが自分の中で大きくなってきています。『終活』のようにとらえられると人生の終わりを見越して行う行動というネガティブなイメージがありますが、残りの時間で今の自分で出来る事をする、残りの時間を楽しく生きるために出来る事をするというポジティブな考えです。それにはプライベートは勿論、仕事に於いても自分なりに【続ける・継続】【捨てる・やめる】【始める】を整理して明確にしなければ、人生後半の質は高まらないと思うようになってきました。プライベートな事はまたの機会があれば記したいと思いますが今回は仕事に於いての事を記させて頂きます。

私達世代(昭和)では、やはり生涯就職というのが基本的な考え方の時代でした。入社当時の勤務に関して職人だった親父から「最低でも3年は続けろ!」は勿論の事でさらに「1年は自己都合で仕事を休むな!」と言われ、会社では「仕事は見て盗め!」というような昭和あるあるで皆さんも耳にしたことは有るのではないでしょうか?若き私は、そんな時代を経験し、なんとか乗り越え?今や三和機工の勤続年数で数えたらトップ3に入っている超古株となっていました・・・。そりゃあ、残りの時間も気になってくるでしょう(笑)今では就職して1つの所に長く働く事より、自分に合った条件や環境でより良い仕事が出来る所を選択していく傾向が強く人材確保や人材育成に悩まされている企業は多いのではないかと思います。かくいう私も少なからず同じです。
日々の業務の中で自分がもう1人いたらどれだけ楽で助かるだろう?と1度くらいは誰しも思った事はありませんか?(私は日々思っています!)自分と意志・意向や技術が全く同じなので、何をどうしなくてはいけないのか、どうやりたいのかを言わずともこなしてくれるでしょう。例えるなら『クローン』でしょうか。【続ける・継続】していく為には技術継承や後任者(次世代)を育てていく事は必要だと思いますが、必要とされる技術承継者や後任者は時代や世代で影響されない『クローン』なのでしょうか?例えば伝統工芸や昔ながらの製法で変わらぬ味、代々からの秘伝のタレなど時代や世代で変化していない、させてない事が大切な事も有ります。しかし時代や世代に合わせ進化していく、させて行かなければ成り立っていけない場合がほとんどではないかと思います。後任者に自分の意志・意向や技術を継承していく中で時代や世代、環境で新しい事や違う思考が持てるように育てて行く事も必要となります。例えるなら繰り返す事で変化が生じる『コピー』でしょうか。また、継続するために【捨てる・やめる】事が必要になる場合も有るでしょう。全く自分とは異なった人材を育てていかなければいけない場合や手作業や作業者からの自動化、人材不足、新しい物事への転換や組織改革などでしょうか?また、「故きを温ねて新しきを知る」ではないですが、ずっと継続や継承してきた事がこの先も本当に必要なのかという事も吟味する事も必要です。皆さんが必要とされる【続ける・継続】は『クローン』ですか?『コピー』ですか?それとも【捨てる・やめる】でしょうか?
何かを【始める】には内容によっては相当なパワーを必要とする事もあります。それらをいくつも始めてしまうと逆にパワー不足となり残りの時間を楽しく生きる事が出来なくなってしまいます。始める為に終わらせるという考えも有ります。最近ドラマを見ていて知ったのですが「生者必滅会者定離」生まれた者は必ず死に、出会った人とは必ず別れがくるという仏教の教えのようです。「仕事を最後までやり遂げる」よく聞いたりしますが、残りの時間で今の自分で出来る事、残りの時間を楽しく生きるためを考えた時、この『最後』とは定年の事なのだろうか・・・?
第283号 数独やってみませんか?
第283号 数独やってみませんか? |
writer:小 谷 野 一 彦
前回273号【私の履歴書】末筆でお知らせしたように高校生活の続きから進めたいと思います。二度と母親に恥をかかせることが無いよう心に誓った高校1年生ではありましたが、残念ながら2年生では坊主頭になった私と先生の『同伴帰宅』や長期休みを返上した『社会奉仕活動』など、母親にはずっと恥をかかせっぱなしの高校生活で改めて申し訳ない気持ちになりました。ただ振り返って感じたことは「毎日楽しかったな~」この一言ですね!さて、次は三和機工入社からとなります。三和機工での履歴はよく新聞に書いていますので省略し『私の履歴書』はこれでおしまいです。

話は大きく変わり最近の我が家でのブームは【数独-すうどく-】です。後期老人と老人近い夫婦の認知症予防として取り組んでいます。『数独』とは「数字は独身に限る」を略されたものの様で、タテヨコ列ともに9列あり3×3で区切った9マスのブロックおよびタテヨコ列のどれにも1から9の数字がひとつずつ入るパズルです。原型は1979年アメリカの建築家ハワード・ガーンズが「ナンバープレイス」の名で発表しなした。それを、ある日本の書店の社長がルール改善をして1984年にで『数独』として発行されました。豆知識ですが『ナンプレ』と『数独』は同じものです。
数年前に母が骨折で入院した時に妻が母に暇つぶしにとプレゼントしたのがきっかけで我が家に数独ブームがやってきました。母は認知症老人になりたくない一心で最初は初級編も出来なかったのですがコツコツと腐らずに取り組んだ結果!少しずつ腕をあげ今では【超難解レベル】と書かれた問題も解けるほどの腕前です。因みに私は母から【数独マイスター】と呼ばれるほど腕を上げハマったひとりです。数独の解き方には正しい理由が必要で、何となくこの数字かな~では正解にたどり着けず途中で投げ出すことになるでしょう。またレベルが上がるごとに数字を特定する理由が複雑になり難しくなります。正しいやり方があるのかもしれませんが、超難解レベルではこのマスには2つの数字のどちらかしか入らないが、どちらか一つに絞る理由が見つけられない時もあります。その場合2つの数字のどちらかを選択し、その数字で不正解だったらもう一つの数字で再チャレンジをします。30分ぐらいで正解できる問題もあれば、延べ24時間ぐらいのかかってしまう忍耐力を試される問題もあります。難しく時間がかかったものほどすべての空欄を埋めて正解できた時は頭のモヤモヤが無くなりスカッと爽快な気分を得られます。後期老人と老人近い夫婦の3人家族ですので会話のない家庭環境となりそうなところですが3人共通の話題で会話をする事で認知症予防のほかにそれぞれのストレス解消にも大いに役立っているのでないかと感じています。
今はストレス社会と言われており誰にでもストレスは必ずかかるもので避けて通れないものです。先日ある講演の中で【暑熱順化(しょねつじゅんか)】という言葉を知りました。熱中症予防の一つで体を暑さに慣れさせることなのですが、非常に大切なものだと感じます。昔のことを話しても昔と今は違うと怒られそうですが、昔はスポーツしながら水を飲むなと言われていました。これはある意味そういう状況に慣れることでもあったように感じます。体を大事にすることは重要ですが、大事にしすぎることで少しの変化に耐えられなくなってしまうので、適度なストレスは受けるべきなのかと思い私はこう考えるようにしています「かかるストレス受け止めて 溜めずに流す 数独の解」こんな感じでしょうか(笑)
さて、また話は変わりますが先日2人目の孫が誕生しました。1人目の男の子にもメロメロでしたが今度の女の子にもメロメロで目尻がさがりっぱなしです。ひとりっ子で育った娘が2人目を産んだことに驚きと感謝の気持ちでいっぱいです。娘たち家族は大阪で共働きしながら産休育休を活用し1人目を育てていて2人目を授かったこれからも共働きの生活スタイルは変えないようです。子育て支援が比較的充実している大阪とはいえ仕事をしながらの子育ては相当大変なことだと想像しますので無理せず楽しく暮らしてほしいと願うばかりです。
第282号 ○○ヨシタカ
第282号 ○○ヨシタカ |
writer:鈴 木 嘉 孝
今年も半分が過ぎ、7月になった。人は歳を取ると年々1年が短く感じていく…そんな私も来年には50歳!生まれて半世紀かと思うと感慨深いものだ。昔の記憶をたどってみて思った。古い記憶ほど薄れているなぁ。詳細が思い出せないぞ!?記憶も髪の毛のように次第と薄れていくモノなのだ。そこで記憶がつるピカはげ丸(←これは覚えていた!※昔のマンガ)になる前に少し自分の人生を振り返りつつ、話を進めていこうと思うのでお付き合い頂きたい。

時代(とき)は昭和…当時、近所にはまだ畑や空き地が数多く残り自宅の前には小川も流れていた。子供は外で遊ぶのが当たり前の時代。ある夏『少年ヨシタカ』は思った。今日は小川にダムを造って遊ぼう!早速、友達を誘い計画を練った。自宅の近所には建設会社があり、その敷地内にはセメントなどで使うであろう砂などが大量に保管してあったので、それをチョット拝借して小川をせき止めることにした。最初は2人だけだったが次第に近所の子供たちも集まり始め、最終的には6人程居たように思う。砂を運ぶ係と砂を踏み固める係、共に一丸となって汗をかいた結果!川の幅いっぱい、長さにして10m近く小川をせき止めることに成功した。というか大量の砂で埋め立てたのだ。凄く達成感があり、皆で歓喜に沸いたのを覚えている。その後、大人達に見つかり町内を揺るがす大事件となった。大きな代償を払うことになったが【皆で同じ目的を持ち、協力して事を成し遂げる喜び】を知った。大人の階段をひとつ上った気がした。
時代(とき)は平成となり、少年ヨシタカは中学生になっていた。この頃がちょうどバブル景気の始まりである。近所にはコンビニも増え、周りの畑や空き地も減っていった。ホリデータワー(現在のロワジールホテル)が建ったのも、この頃だ。音楽もレコードからCDが主流となり、デジタル時代の幕開けといった感じだろうか。日本の好景気ぶりは両親の懐(ふところ)事情からも窺(うかが)えた。家の車やテレビは新調され、家族旅行から家のリフォームまで、明らかに羽振りが良かったと思う。高校生になった頃にはKING&QUEENというバブルの象徴的な都会のディスコが、こんな田舎町にまでオープンするという異常な事態となった。『思春期ヨシタカ』はボディコン姉ちゃん見たさに毎週末!足繁く通ったのは言うまでもない。しかし今思えば高校生で普通に入場出来ていたし、ボディコン姉ちゃんの中には同級生もいた事も考えれば『とんでもない時代』だったなと思う。この時、私は何を学んだのだろう!?しかしこんなバブル景気も長くは続かず、高校を卒業する前にバブルは弾(はじ)け、崩壊してしまう。就職を控えた生徒たちに先生が「これからの日本は大変な時代になっていく!特にお前らみたいな落ちこぼれは本当に大変なことになるぞ!」と言われたのを覚えている。今の時代にそれを言ったら大変なことになるのは先生の方だ。それだけ時代は変わったということだろう…。
時は流れ~21世紀となり『青年ヨシタカ』は一人暮らしを始める。これも実は、半ば強制的に実家を出された。母親の言い分はこうだ「あんた、このままだと絶対に結婚せんら?敷金礼金は払ってやるで出ていきん!」といった感じだった。まだ26歳だったが、当時はそれくらいの歳で結婚の心配をされる時代でもあった。結果、悔しい話か?嬉しい話か母親の思惑通りとなり、26歳で付き合った彼女が今の嫁さんである。母上、ありがとう!と言っておく。そして30歳で結婚と同時に東京で暮らすことになり、新婚生活は大都会で迎える事となる。やはり日本は東京中心に周っている。頭ではわかってはいたが、生活してみて本当にそれを実感する事となった。若い事務員の言い放った言葉で「わたし、高校生くらいまで名古屋って大阪にあると思ってましたぁ~!」…この言葉は今でも脳裏に焼き付いている。埋立
35歳、地元豊橋へ戻ってから『壮年ヨシタカ』は途端に太りだす。世の中にはスマートなスマートフォンが登場し出した頃だ。この辺りから時代の変化は一気に加速したように思う。『仮想現実』なる言葉を耳にするようになり、最近ではコロナ禍もあり家で過ごすことが増えて色んな事がリモートで済まされるようになった。…だから太ったと言い訳するつもりはないが『中年ヨシタカ』となった今、人生100年時代の折り返し地点だ。視力も低下し眼鏡をかけるようになった。家でゴロゴロ…YouTubeばかり見て過ごしているからかもしれない。そんな中『〇〇してみた系』の動画を観ていて思った。人の体験を見たり人の意見を聞くだけで気付けば見ているだけぇ~の人間になっていた。自分で考え行動し、成功や失敗や反省を繰り返すことで人は成長するものだと思う。残された人生、どう生きるかは自分次第だ。
第281号 取捨選択
第281号 取捨選択 |
writer:岩 本 祐 亮
早いもので今年も、もう6月。6月のイメージというとやはり『梅雨』ではないでしょうか。いやいや『ジューンブライド』でしょ!と連想するロマンチストさんもいたり、いなかったり、、、ちなみに私は『ノベンバーブライド』ですけど何か(怒)(←どうでもいい情報はさておき)梅雨になると洗濯物は乾きにくく髪は湿気でボサボサに。カラっと晴れたかと思えば急に雨が降ってジメジメしたり何かと過ごしにくい季節ですね。この時期はどうしても天気予報を気にしがちです。テレビニュースを観ていても洗濯指数やら何やらでいつもより天気に関する情報が多い様に思います。私は専用の天気予報アプリで、ほぼ毎日天気予報を見ています。アプリの予報とテレビの予報が合っていない時があり困る事がありますがそんな時は”Yahoo”や”Google”などのウェブサイトで調べるのですが、これまた一致せずで私を混乱させるのです。同じような経験ありますよね?!

ところで皆さんはどんなツールで天気を確認していますか?私と同じように専用アプリって方が多数派ではないかと思いますが、新聞やテレビニュースで知るって方も多いでしょうね。そんな中、最近では『テレビ離れ』が深刻になっています。少し前までは若者のテレビ離ればかりが取り上げられていましたが若者だけではなく中年層でもテレビ離れが進んでいるそうです。岩本家の場合では特に見たい番組がなくても”BGM”代わりにテレビをつけているので、あまり実感はないのですが“youtube”や“primevideo”などを利用する時間が増えてきているのも事実です。それでもスポーツなどは、やはりライブで見たい派ですし同じ時間に情報や感動を共有したいので、まだまだテレビは欠かせません。私が学生の頃は学校へ行くと必ず「昨日の〇〇見た~?」などとテレビ番組の話で盛り上がっていましたが今時の学生達はひょっとしたらそんな会話はしないのかな?と考えると何故か少し寂しい感じもしてしまいます。ちなみに私の弟は訳あってバツ1つの勲章を手土産に隣の実家に舞い戻ってきましたが部屋にテレビは無く、彼曰く「テレビなんて見ない!」との事。30代後半なのに若者のふりをしています。
さて、テレビ離れについて掘り下げていくとその原因はいろいろあるかと思いますが最大の要因は、スマホの普及に伴い“SNS”や『サブスクリプション』などのネットコンテンツが充実してきた事にあると思います。では何故ここまでネットコンテンツに魅了されるのかというと、それは【選択肢の自由化】にあると思います。ユーザーは自分の興味のある事や好きな物を、好きな時間に見たり聞いたり出来るのですから利用者が増えるのは至極当然の事です。これはまさの【テレビとネットの逆転】といっても過言ではありません。テレビでは見たい番組があっても時間が合わなかったり、家族内で見たい番組が異なりチャンネル争いをしてみたり、そもそも興味のある番組がやっていない場合もあります。もう2、3年もすれば『チャンネル争い』なんて言葉は使われなくなっているかもしれません。
少し視点を変えてネットコンテンツ側になって考えてみます。まずはどんな事を発信しどんな内容で勝負を仕掛けていくのか。またどのようなユーザーをターゲットにするのか、客層や性別などを絞り込んだ上でそれらを取り込む為にはどうすればいいのかを模索するでしょう。テレビ番組と異なる点は全ての人がお客様ではないという事です。同じ趣味嗜好の人だけを【狙い打ち】です。そして興味を持ってくれない人は思い切って【捨てる】のです。この潔さがユーザーを虜にしているのだと思います。
さて、私達の仕事でこの潔さを出せるのか、、、。我々の最も得意とする分野で勝負を仕掛け、お客様を絞って狙って【虜】にする。聞こえは悪いですが難しい場合は勇気を持って【捨てる】事も必要ではないかと思います。逃げではなく『前進する為の捨て』です。全ての事柄に対応していく事はとても労力を伴います。企業として生き残る為、発展していく為にはこの【取捨選択】を見誤ることなく慎重かつ大胆に行っていくべきだと考えます。最後に、大好きな格闘技を視聴する為だけに某サブスクを利用した私は狙い打ちされたいいカモでした。
第280号 またかよっ!
第280号 またかよっ! |
writer:新 妻 吾 郎
忘れもしない今年の1月4日!私は妻の御実家にいた。正月なので大家族〜大集合!家の中には9歳以下の子供が8人・・・まさに動物園状態だ。私は『遊ぶオモチャ』としての格好の餌食となり次々に飛び掛かってくる子供たちとプロレスごっこをしていた矢先!私の腰が「またかよ!」とばかりグキッと悲鳴を上げた。初めは、またプチギックリ腰か?と思っていたが一向に治らない…ばかりか日に日に痛みは増して来る。そして(あぁ〜コレは、また坐骨神経痛だな!)と思い、魔法使いか!という程よく効く鍼灸接骨院の先生の所へ駆け込み寺か!の様に駆け込んだのである…

そんなこんなで皆様も御記憶にあるかと思うが私は松葉杖生活になりながらも1カ月間は鍼灸へ通いつつ騙し騙し出社したのである。しかし!グキッと腰が悲鳴を上げて1ヶ月半が経過する頃には自宅の2階へも上がれず1階に布団を敷き生活していたのだが、ウチには8才と4ちゃいと2ちゃいの子供がいる。8才のお姉ちゃんはだいぶ色々な事が分かって来て、そんな事はしないのだが~4ちゃいの男の子(精神年齢3ちゃい)と2ちゃいの女の子(精神年齢3ちゃい)は朝から「おはよぉ~パパ♪」と満面の笑みで私の痛い右脚を目掛けてジャンプして来る。愛情表現と分かってはいるが的確に痛点を突いてくるヒザやカカトにギブアップ…匍匐(ほふく)前進もままならない状況で…流石に妻も見かねて…気づけば「1、2、3!」と担架に乗せられ救急搬送され病院へ。MRI検査を受け、先生から「完全にヘルニア。もう派手に飛び出して神経節にブチ当たってますよ!」と。私は以前の三和新聞でも書いたが1年半前に『腰椎椎間板ヘルニア』になり手術をしたのだと。なのに~再発…マジで「またかよ!」である。坐骨神経痛だとばかり思っていたのに…結果、即入院となった。
翌日、私の病室へ1年半前の担当執刀医が来られて開口一番「よくこの状態で生活できていましたねぇ~」と。続けざまに「前回と同じ腰椎の3番・4番・5番からヘルニアが…」と言われた瞬間!「先生!3・4・5番は前回手術して治ったんじゃあ~」とお伝えすると食い気味に「新妻さん!背骨を上から見て下さいよ。◯で360度あるでしょ!前は右斜め上から、今回は左斜め下から出て来たんですよ。」「え~!360度なら再々発もあるカモって事ですか?」「…ですね!」(マジかぁ…)である。確かに先代も腰のヘルニアで入院し幼き頃、見舞いへ行った記憶が…今20歳の息子も私同様、頚椎(首)と腰椎のヘルニア持ちのようで…DNAというか遺伝子は侮(あなど)れんと痛感する次第である。
さて、1年半前に腰を15cmほど切って手術をしたので更にその上を切開するのは先生も躊躇する様で今回はブロック注射をする事に先ずは決まった。前回のヘルニアの時も2回注射したのだが効かず、あんまり効かないんじゃないのぉ〜?という私の意思を感じ取ったのか?顔に出てたのか?先生が「今回のヘルニアの飛び出し方はブロック注射の効果が非常に期待できる形なんです!」と熱弁され、従う事に私も腹を括(くく)った。ブロック注射とは、まぁ〜脊髄に直接打つので…それなりに相当〜痛い。しかし!もう毎日の痛みで『痛み慣れ』している私はブロック注射ぐらいの痛みで、ずぅ~っと耐えて来たこの痛みが取れるならば「よっしゃぁ!かかって来いやぁ~!」ってな感じである。1度打っては〜経過観察。『神のみぞ知る』ではないが私のヘルニアのみぞ効果が分かるので…結果、今回の入院で3回!ブロック注射を打って、痛みはだいぶ軽減された。入院初日なんぞは病院のベッドの掛け布団が右脚に掛かっているだけで重く痛く感じ、布団を掛けないと寒いという何ともトホホな日々だった…。
さて、先生や看護師さん達には感謝して止まないが、1つだけ気になる点が…それは【報連相】がちゃんと出来ているのかな?という事である。【報連相】は【報告・連絡・相談】である。患者さんも沢山いて大変なのは理解もするが、余りにも代わるがわるにやって来る看護師さん達に話をしても話が届かなかったり同じ質問を何人もの看護師さんに受けたり、もうしなくて良い検査を交代勤務の度に検査しようとして来るし!それも「しなくて良い」と先生が言われてから4日経ってもしてくるのである…病院の『品質は本当に命』と直結しているので本当に「またかよ!」と言わせないでほしいと、私は懇願する。
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