Archive for the ‘三和新聞’ Category
第294号 NO LIMIT! 2
第294号 NO LIMIT! 2 |
writer:太 田 敏 浩
令和の米騒動で米の価格高騰が続いています。備蓄米を放出すれば古古古米の味が云々騒がれる始末。僕はお米がいただけるだけで『ありがた山の寒がらす』です。←マジ寒。米農家の皆様には分野は違えど同じ製造業に携わる身としてこれからも美味しいお米を作り続けてもらいたいと切に願うばかりです。さて!【来年は胸を張ってウルトラランナーだと言えるように限界の高みを目指したいと思います!】これは前回の僕の記事の結びの文章です。そして今年の飛騨高山ウルトラマラソン100キロに参加してきました。果たして太田は真のウルトラランナーになれたのか!以下、【NO LIMIT!】の続編【NO LIMIT! 2】になります。

遡(さかのぼ)ること今年の1月、にしおマラソンでの事です。20キロ地点を過ぎてから激しい右膝痛に襲われました。何とか完走したものの帰路の途中、豊橋駅に着いて席から立ち上がると右足の爪先が地面に当たっただけで膝の激痛で腰から落ちそうになり、何とか電車からは降りたものの一歩も動けません。結局【名鉄の駅員さん】のご好意に甘えさせていただき車椅子で駐車場まで運んでもらいました。駅員さんにこの場をお借りして厚く感謝申し上げます。次の日に病院でレントゲンを撮り診察結果を聞くと、骨や軟骨には異常が無いとのこと。炎症で膝に水が溜まっているとのことでした。こんなに痛いのに異常が無いことに驚き、そして安堵しました。しかし異常が無いとはいえ、4月になっても痛みで膝が曲がらなくて屈伸も出来ない状態です。本番まであと2カ月。もうウルトラマラソンには間に合わないと諦めかけていましたが、お客様の「NO LIMIT!読んだよ!」の声に一念発起!あと2ヶ月しかないけど気合を入れ直しました。会社帰りに整体でマッサージと電気治療に通い、走れないなら筋トレだけでもやろうと日々取り組みました。最後の仕上げは整体で膝にテーピングです。出来るだけの準備をして、いざ飛騨高山へ!
6月9日天候曇り。いよいよ本番がやってきました。スタート地点に整列します。スタート前でもゴールが100キロ先という実感は湧きませんが、これから何が起きるのか高揚感が堪りません。またここに帰ってきた。今年の自分はどこまで行けるのか。スタート10秒前から皆んなで手拍子を始め、拍手しながらスタートを切ります。制限時間は14時間なのでざっくりと1時間に7キロを目安にペースを刻みます。途中、抜きつ抜かれつの青年に「ずっと自分と同じくらいのペースですね。頑張りましょう!」と声を掛けられ、その後もお互いに追い抜く時には声を掛け合って前へ前へ。練習不足は如実でアップダウンの激しいコースに脚が止まりかけます。そんな時、追い抜かれ際の青年のエールに支えられながら辿り着いた50キロ地点、7時間を超えていました。100キロ完走の淡い希望はここで断念して、飛騨牛のエイドステーションを目指します。ここまで頑張った右膝は下りでピキピキし始めたので下りも歩きます。膝がここまで持ったのはテーピングのおかげです!先生ありがとう!僕の膝もよくがんばりました!声を掛け合った青年には暫く会わなかったけど、また前方に2人で話しながら歩いている青年が見えてきました。青年と合流すると次の関門は間に合わないからと心が折れた感じでした。「あと5キロだからここまできたら飛騨牛を食べに行こう!」と誘い、気持ちを入れ替えて3人で歩を進めました。脚の痛みを忘れて会話の花を咲かせ、やっと辿り着いた関門前。3人で記念写真をパシャリ。(H君、M君、楽しい5キロをありがとう。来年こそはゴールで写真を撮ろう!)飛騨牛に舌鼓を打ちバスに回収されてゴールまで移動しました。今年の飛騨高山ウルトラマラソンは57.2キロで終了になりますが、沢山の感謝で辿り着いた今回のゴールは完走とは違う満足がありました。
次の日の朝、宿を出る時に同宿のランナーさんから「ランナーさんですか?お疲れ様でした!」と声をかけてもらいました。その一言に元気をもらい、お互いを尊重出来るこの場所へまた来年帰って来るんだ!と心に誓いました。
さて、仕事も山あり谷ありのウルトラマラソンみたいなものです。余裕が有れば誰かを助け、余裕が無ければ誰かに助けてもらう。皆んなで支え合い、声を掛け合いながら成長していきたい。そして、その根っこにはお互いの尊重と感謝があってこそだと思います。
第293号 ポップ・ステップ・ジャンプ
第293号 ポップ・ステップ・ジャンプ |
writer:菅 沼 稔
『大阪・関西万博』が始まって1ヶ月半が経ちました開幕前はネガティブな報道が多かった印象ですが思いのほか盛り上がっているようです。会場全体を囲む『大屋根リング』は世界最大級の木造建造物で全長2キロメートルあるそうです。このところ運動不足でお腹周りの脂肪が気になりますので暑くなる前に行って歩いてみたいと思っています。

昨年の健康診断では脂肪肝傾向のコメントと共に尿酸値は3年連続の増加傾向を示し『痛風』が心配な今日この頃です。友人にも痛風経験者は多く、よく話題になるのですが尿酸値を下げるにはプリン体を控えることや適度な運動が良いそうです。私はほぼ毎日晩酌をしていますがビールは1本(350ml缶)と決めており、その後は焼酎にしています。焼酎にはプリン体が含まれていないから大丈夫と思っていたのですが、痛風友人が言うには「プリン体から尿酸が作られるのでプリン体の摂取を減らすのは正解だが、お酒よりも食品に多く含まれているし、そもそもアルコールに尿酸の排泄を低下させる作用があるので、お酒の種類にかかわらず飲酒すると尿酸が体内に蓄積しやすくなる!」との事。そんな話をビールジョッキ握りながら聞いているのですから、痛風まっしぐらの未来しか見えません・・・
さて、この『年代あるある健康トーク』はこのくらいにして話題を変えたいと思います。今や私達の生活に無くてはならない存在となった『コンビニ』です。24時間営業でお弁当や飲料水、生活雑貨の販売はもちろんのこと!銀行ATM・公共料金支払い・宅配便受付・チケット販売・行政サービス等、出来ることが年々増えています。我が家では妻がコンビニで働いていることもありコンビニ関連の話題が多く新商品の情報があると、いち早く教えてくれますしスイーツ関係は新商品が発売するとすぐに買ってきて試食会が始まります。お客様に味の説明をする為だそうです。「ただのスイーツ好きだろ!」と突っ込みつつ私も甘いもの好きの次男と一緒になって試食するのですが、最近のコンビニスイーツは侮れません!ケーキ屋さんで買うのと遜色ない品質で、しかも流行をいち早く取り入れた商品がどんどん出てきます。そんな誘惑だらけの職場ですので妻は仕事帰りに高頻度でスイーツを買って来ます。こんな環境では脂肪肝にもなりますよね!『なんちゃってマラソンランナー』の私程度の運動量では脂肪の消費が追いつきません。
さて、皆さん『POP』ってご存じでしょうか?製造業でいう生産管理システムの“Point of production”ではなく今回はサービス業での“Point of purchase advertising”を略した『POP』で【ポップ】と呼ばれており商品名や価格、商品説明等を表示して販売促進を促すものでコンビニやスーパー等で見かけたことがあるかと思います。この【ポップ作り】に妻が本気の夢中なのです。初めは皆が嫌がるので仕方なく作っていた様ですが、やり始めたら楽しくなって教本を読みあさり買い物中に見かけた気になるものがあると写真に撮って参考にしてと、かなりの熱の入れようです。力作が出来ると私にも「店に見に来て欲しい!」と言うので何度か見に行きましたが、日に日に上達しているのが分かります。今では平面のタイプだけではなく立体的なパターンもあり、休日には私も手伝わされることもしばしば・・・仕事というより、もはや趣味です。
妻が言うにはコレひとつで売上が全然違うようで、発注間違いで大量に仕入れてしまった時でも【ポップ】でのアピールと声掛けで売り切る事ができると鼻の穴を膨らませながら豪語しています。最近では私も買い物中に見かけるとつい目が行ってしまいます。思わず笑ってしまうようなコメントや個性豊かな形状でアピールしたもの等、色んな工夫があり感心してしまいます。業種は違いますが我々の製造業においてもお客様に知って頂くこと、興味をもって頂くことがいかに大事かを考えさせられます。さあ【ポップ】作って「ポップ・ステップ・ジャンプ♪」なんつって!
第292号 人生チョイス
第292号 人生チョイス |
writer:彦 坂 訓 克
5月になるとよく『五月晴れ』という言葉を耳にしませんか?5月頃のよく晴れた天気という意味で使われることが多いようですが、元々は『梅雨の晴れ間』という意味で使われる言葉のようです。最近では梅雨らしい梅雨時期がなく五月晴れどころか、春が過ぎたら梅雨時期を飛ばしてすぐ真夏で『猛暑』という感覚でしか有りません。この記事を書いている今も既に気温は今年初の『夏日』とか・・・。昨年に続き今年の夏も連日『猛暑日』が続きそうな気配がします。また、新たな環境がスタートした4月を越え、疲れが出てしまう時期でもあり、5月の連休後に『学校や会社に行きたくない』『眠れない』『何事にも集中できない』など、多くの人が受験や就職などの大きな目標を達成したことで『燃え尽き症候群』のような状態に陥ってしまうのを総称して『五月病』と呼ぶそうです。気持ちをリフレッシュすることや、心身の疲れを取ることができる【選択】ができると良いですね。

人は【選択】をしなければならない場面がいつも起こり続けています。日常で起こる些細な事から、時にはその先の人生に大きな影響を及ぼす【人生の岐路】ともいえる選択もあるでしょう。例えば、些細な事(注:個人の感想です)では、今日の夕食何にしよう?とか、今日はどんな服を着よう?とかなどネットで調べたら、なんと1日に最大3万5,000回の選択(決断)をしているそうです。今回はその多い決断の中で人生の岐路ともいえる選択を私の人生を振り返って(思い出に浸りながら)綴っていきたいと思います。
普通に地域の小中学校に通い、敷かれたレール通りの義務教育課程を過ごして中学3年には、卒業後の【進路】を決める時期が訪れてきました。私の父親は職人で建築業を個人で営んでおりました。私は子供の頃から父親の仕事(職人)になんとなく?憧れもあり、長男だったので単純に家(仕事)を継ぐことを選択するべきではないのかと思っていました。当時の私は職人に学歴はいらない(注:個人の感想です)、家を継ぐ道(職人への道)に進むのなら高校で3年間も学業に時間を費やすより少しでも早く小僧(今では使われないかも…)に出て、手に職をつけるべきと考えていました。父親にその旨を伝えると「これから先、個人の職人では仕事が減少し生活が不安定になり、食べていけなってしまう。進学してお前の好きな事をやっていけば良い」と父親は、家を継ぐ事に賛成ではありませんでした(押し切ってまで家を継ぐ意志は持っていませんでした・・・)。進学についてどの学校に進もうか?ということではなく、社会人か?学生か?が、私にとっての人生の岐路といえる最初の選択だったのではないかと思い出されます。
今の様にスマホやインターネットなどは当然無く『マイコン』と呼ばれるコンピュータが一般家庭に少しずつ浸透し始めてきていた時代だったと思います。私はこのデジタル制御のプログラムやフローチャート(制御)に興味を持っていて、電気関係に少しでも携わって行きたいと思い工業高校に進学することを決めました。入学してからは真面目に勉強する訳でもなく、部活にも入って専念する訳でもなく・・・という高校生活を送りながら進路を決めないといけない時期がやって来ました。私は進学するという考えはなく、就職先(社会人としてのスタート)をどうするかの選択でした。地域柄、自動車関連の会社が多く色々迷いもありましたが、その頃に父親の仕事の関係で『三和機工』とのご縁を頂き、電気関係の仕事にも携わる事が出来ることも有って、縁に甘えてお世話になることになりました。
1999年には、私達夫婦に息子が誕生しました。この頃は実家に同居していたのですが、別居する事を考えており借家か持ち家かと悩み【選択】している時期でした。当然、家を持つ様な資金は無くこの先、何十年という借金を抱えていくことになることや別居について妻や両親の理解も有り、翌年には家を持つことが出来ました。。
人は『選択』をしなければならない場面がいつも起こり続けています。「あの時はこれで良かったのか?」「あの時こうしていれば良かったのかもしれない?」そんな風に思ったことはありませんか?私でいえば「職人の道に進むべきだったのか?」「違う会社に就職していたらどうなっていたのか?」「親と同居すべきだったのか?」です。答えを選んだ後、その答えが正解だったかどうかに不安になってしまう事ばかりです。【パラレルワールド】ご存知の方も多いと思いますが、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指します。映画やドラマなどで、過去に戻ってある場面をやり直すことで違う現実が展開していくというやつですが残念ながら現実では私たちは過去に戻り、やり直すことはできません。しかし『今』をどうするかは【選択】できます。つまり『今』を過去の延長線上のような振る舞いをするのか、新しい自分として振る舞うのかで次の展開が変わり始めるわけです。大切なのは【今】どう考え、生きることだと思います。。
第291号 しくじらない?先生
第291号 しくじらない?先生 |
writer:杉 浦 剛
ようやく寒い冬も終わりが近づきやっと過ごしやすい季節となってきました。今年の冬は近年稀にみる厳冬だったので、寒さが苦手な私は出来る限り外出を避けていました。気候が良くなってきたので気軽に外出もしたいのですが、ガソリン代やレジャー費の高騰により今度は私の懐が寒くなってしまうので当分の間は外出をなるべく控え、出費を抑えようと思っています。外出しなくても光熱費や食料品などのあらゆる生活必需品の高騰もあり、このまま物価高が続くのであれば税金の減額や国からの補助金等を望むのは私に限らず誰もが望む事ではないでしょうか?

話しは変わりますが4月といえば新生活が始まる時期であり入学式や入社式等、様々なイベントが思い浮かびます。かくいう私も学生時代に『自動車整備士』になりたくて高校卒業後、某自動車ディーラーへ就職しました。整備士を志望して入社したのですが入社式を終えた後に当時面接をして頂いた部長から「今年は自衛隊出身の整備士が2名入社し整備士は足りているので杉浦君は『部品課』に配属になります」と言われました。内心「えー今更かよ!」と思いながらもしぶしぶ承諾し、新社会人のスタートとなりました。私が入社した当時の部品課は久しぶりの新人だったので先輩方からとても親切にご指導や気にかけていただいたのですが、私のやりたかった仕事ではないとの思いから【遅刻】や【欠勤】を皆さんに迷惑をかけている事と感じずにやってしまっていました。そんな時、私の事を実子の様に面倒を見てくれた叔父から「事務系より技術系の方が向いている!」と勧められ『電気関係』の仕事で手に職をつけていこうと決意しました。再就職した頃は、まだ遊び最優先で仕事は言われる事をやるぐらいでしたが20代半ばを過ぎた頃に当時付き合っていた彼女との将来や生活の事を考える様になり、【遊び優先】から【仕事優先】への意識の変化が訪れました。
そんな心変わりが功を奏して【技術】や【知識】が日に日に身についていき仕事も楽しいと感じるようになっていき重要な案件も任される様になり充実した日々を送れるようになりました。当時は主に『制御盤製作』と『配線工事』を行っていましたが(もっとスキルの幅を広げないと…)と考える様になり30代半ばに思い切って『電気設計』にチャレンジする事を決意しました。電気設計の仕事とは主に工場内にて稼働する様々な設備や工作機械などの『電気回路図』の作図や『PLCのプログラム作成』『試運転調整』等、多岐にわたります。不安でしたが早く仕事を覚えて会社や同僚の力になれる様に頑張って勉強したもののそんな簡単に覚えられる訳もなく何度も心が折れそうな時もありましたが、それでも自分が決めた事なので先輩方に解らない事は聞きながらレベルを上げていきました。数年間は苦労しましたが、頑張った甲斐もあり一人で仕事をこなしていける様になりました。
時は過ぎ三和機工に入社して17年が経ちました。人生の折り返し地点を通り越し、社会人としての人生も残り少なくなってきたなと痛感するこの頃ですが数年前から掲げている目標が有ります。それは【若手の育成】です。以前は自分のスキルアップだけが目標でしたが、年を重ねるにつれ体の衰えを痛感する様になり『制御係』の未来を若いメンバーに託そうという思いが強くなってきました。『電気設計』の仕事を覚えるには時間がかかります。特に『PLCプログラム』は難易度が高く、自身で組んだプログラムを思い通りに制御できる様になるまでには『教えてもらう』だけではなく『自分自身』で【経験値】を積んでいかないとなかなか身に付きません。時間は掛かると思いますが今までの『自分自身』の【経験】と【知識】を若いメンバーに伝授し、成長を見守るのが私の【責任ある襷の受け渡し】だと切に感じています。
第290号 孤独のTKG
第290号 孤独のTKG |
writer:新 妻 吾 郎
さて、今月のお題目の『TKG』とは裏腹?に~先ずは『うな丼』の話をしてみたい。別に『うな重』でも構わない。のっけから話はズレるが『丼』と『重』の違いは何か?それは端的に言えば【質】は変わらず【量】の問題である。『丼(どんぶり)』に入れる容器はお椀状に丸く『重箱』は四隅にキッチリとウナギと、ご飯が入るからである。因みに鰻重のランクも『松・竹・梅』とあるが(特上!とかもあるが)大抵の鰻屋さんは【質】は変わらず、ウナギやご飯の【量】で価格が変わるようである・・・本題に戻そう!のっけの重要な話題は『山椒』を、どの様にしてかけますか?という問いかけである。「山椒は、かけません!」と言われれば、そこで話は終了なのだが…。何かのテレビで観て以来!私は、その様にしているのである。まぁ~そんなスゴイ頻度で食べるワケでもないのだが…そのテレビを観る前までの私は、ウナギの上に山椒を振りかけていた。しかしテレビではウナギの下!ご飯の上にかける方が美味しいよ、と。つまり、ウナギの上にかけてしまうと~その店秘伝の継ぎ足しのタレと山椒がケンカしてしまうと云うのである。なので、秘伝のタレ→ウナギ→山椒→ご飯とサンドする事によって、それぞれの味が独立しながら重なり合って旨味のハーモニーを奏でて、より一層!美味しくなった!…ような気がする。←バカ舌か!とにかく~順番を変えるだけの『チョットひと手間』に目から鱗(うろこ)なので~是非!お試しあれ♪…あれ?ウナギが食べたくなって来てしもぉ~た!

さてさて話を振り出しに戻そう!あれは20年以上前のことだろうか…東京は西麻布という街で(渋谷の上で~六本木の下!)お取引様の接待をしていた。うろ覚えだらけだが…どなたかのご紹介で美味しいコース料理を頼み、ご紹介通りに美味しく!話も弾み!商談も上手く行ったのだが…はて?どんなコース料理だったのか?サッパリ覚えていない。唯一!憶えている事は、そのコース料理の〆が【TKG(卵かけご飯)】だったのである!美味しいコース料理は、ほぼ忘れたくせに…この『卵かけご飯』は脳裏に焼き付いて20年経っても離れない『衝撃』だったのである。さて、その作り方は!…後で、お話しよう・・・
話はズレまくり~私が以前からハマっているドラマがある…。それは『孤独のグルメ』である。元々は漫画であり、ドラマとなり今年の1月には映画公開となった。主演は松重 豊さんで、私が大好きな役者さんである。この作品をご存知の方には説明するまでもないが、松重さんの役名は『井之頭 五郎』である。ドラマのエンディングソングも「五郎~♪五郎~♪」と、とても親近感を覚える作品だ。どんなドラマかとザックリご説明をすると、自分が選んだ目の前の一食に!真っ向から独りで向き合う話である。もう3年前になるか?私が腰椎ヘルニアで入院していた時も『病院食』を相手に(うむぅ~そう、きたか♪)と、リアル孤独のグルメになってしまい…咀嚼(そしゃく)と口の中に広がる味わいを堪能する五郎を真似る吾郎が、しばしば出てきてしまい・・・う~む、話が先に進まん。
・・・『卵かけご飯』というと~ご飯にチョット穴をあけて、そこに混ぜた卵をかけて醤油をタラリ…というのがオーソドックスな作り方だと思うが、そのコース料理の〆の【TKG】はチョット違った。①先ず、卵をそのまま混ぜるか〜黄身と白身に分けて、白身だけチョット泡立ててメレンゲ状にするも良し②ご飯をよそって自分の好みで醤油をかけて〜ここで『醤油ご飯』を作る!←コレ結構〜大事♪③最後に泡立てたメレンゲ状の白身をのせて、黄身を添えるか…そのまま混ぜた卵を醤油ご飯にぶっかける!…の、以上である。もう少し『料理の鉄人』の様にこだわるのなら①の卵は上質なモノで常温が良い②のご飯も上質で炊き立てが良いし醤油も上質で常温が良い。何故なら冷蔵庫で冷やしたモノより熱々で食べたいからである!冒頭のウナギの話じゃないが~ひと口、口に運んだ瞬間!まず卵の風味が先に立ち、醤油でコーティングされた熱々のお米が後から追いかけて来て、これぞ!『究極の卵かけご飯』となる!…気になる方は黄身に付いてる白いヒモ状のモノを取り外しても良い…が!あのヒモ状のモノは『カラザ』という名称で黄身を卵の中央に固定し衝撃から守る『役割』のようで、人間の『へその緒』とは役割が異なるらしく〜実は栄養素がカナリ高い!…と、こだわりの付け足しは以上である。さて!順番を変えるだけの『チョットひと手間』に目から鱗(うろこ)なので~是非!お試しあれ♪…あれ?卵かけご飯も食べたくなって来てくれたかな…?
最後に、こんな単純な作業の中にシェフというプロの方々は更に〜ひと手間も、ふた手間も加えることだろう。ただ、バターや海苔やネギ・とろろ・キムチ・ラー油・麺つゆ・わさび・ごま油 etc…などなど、何か【別の物】を加えるアレンジも出来るのならば味は無限に広がるだろう。だが、単純に具材(材料)は同じ!順番(やり方)を変えるだけで成果(結果)は歴然!・・・さぁ〜固定概念を覆そう!
第289号 プロジェクト K
第289号 プロジェクト K |
writer:小 谷 野 一 彦
年が明け、早くも1か月が過ぎた。今月の三和新聞の発行日、2月3日は『立春』で春の始まりである。色々なことが起こった2024年ではあったが立春と耳にすると、ここからは成長とプラス思考で考えを切り替えていこうと思う。決意はさて置き、昨年から某自動車メーカー『安全衛生協力会』の幹事会社として三和機工は指名された。担当者候補として私含め三人いたが他の二人が結託し公平なジャンケンもないまま私が選出された・・・。

因みに私は某メーカーなどで必要な安全衛生の資格は無い・・・「安全衛生に無知な人間が?」と誤解されたくないので言っておくが、私は第一種衛生管理者の資格を保有し安全管理責任者の講習も受けているのでご安心ください。右も左もわからないまま会議に出席すると様々なメーカーの方が揃い大きくは我々のような『設備メーカー』『施設関連メーカー』『商社請負メーカー』で構成され協力メーカー主体の活動となっていた。活動としては工事災害が発生しないようルールが守られているか、安全な作業環境であるかなどパトロールして安全作業の維持継続に努めている。パトロールは自動車メーカーの広い敷地屋内外全域が対象のため、数キロを歩いて回ることとなり特に夏季連休パトロールは汗だく状態で特にキツかったが実際工事されている方の暑さは比較にならず、営業畑で働いている私には現場の環境を肌で感じるよい機会となっている。またパトロールでは作業そのものの確認も行うが、特に関係書類に記載されている『工事内容』『工事日程』『責任者名』『KY(危険予知)実施記録』など念入りに行う。営業としてこれらの書類の記入を担当したこともあるが「細かいな~面倒くさいな~」と感じるばかりか不謹慎ではあるが「適当に書いとくか~」とも思っていた・・・大いに反省である。
どんなに注意していても災害が発生する事はあるが、リスクを最小限に抑える上で工事計画を綿密に立てることは重要だ。無災害で工事を終えることを目標として作業内容を細かく把握し1つ1つの作業リスクを考え帳票に記載していく、この計画で工事全体の作業が整理され限りなく無災害工事に近づくのである。時に未記載箇所を指摘すると工事担当者から睨まれたりすることもあるが、無災害を目指す協力会の一員として心を強く持ち毅然とした態度を心掛けている。幹事としての任期はあと3年あり私の座右の名である【大学進学】つまりは【大いに学び進んで学ぶ】を心掛け、学んだ知識を社内にも展開できるよう努めるつもりである。
話は変わるが私は昨年末でついに還暦を迎えた・・・年明けの1月3日卒業した中学の同窓会が行われた。私の通った中学は超マンモス校で1学年15クラス600人越えの学校だったが今回の参加者は3分の1の約180人が集まった。しかしその中で顔と名前が一致する者は、その1割程度で私の記憶力が問題かとも思ったが…パンパンに膨れ面影がなくなった者、髪が後退を超え面影が消えた元モテ男、名前やエピソードでやっと「お~お前か~!」と思い出せたので記憶力は今のところ大丈夫と安心し、みんな随分と年を重ねたな~と実感した。どちらかと言われれば私は「若いね~」と言われる側と思っているし同級生からも「変わらんね~すぐわかったヨ♪」と言われ勲章を得た気分にもなれた。ただ同級生たちの話はどこに顔を出しても『不健康の自慢話』や『引退を決め悠々自適の自慢話』中には、いまだ『現役絶倫自慢』をする奴もいて45年ぶりに会う面々の楽しい会であった。これからみんなどんな暮らしをしていくのかわからないが、もし数年後に同窓会が開かれればその時も「変わらんね~♪」と言われたい。そのためには老害にならないよう恩師が言われていた社会に触れ続ける日々を生涯続けていきたいと思う。どうかこの記事を読んでいただいた皆様!もし私が弱気に見えたら遠慮なく私の老体にムチを打ってください!これが私の生涯計画!
第288号 三和機工と私
第288号 三和機工と私 |
writer:渡 邉 啓 史
明けましておめでとうございます。本年も何卒宜しくお願い申し上げます。昨年もあっという間に時が経過し、毎年のように1年がとてつもなく早く通り過ぎていきますね。私だけですかね?年始めの新聞記事となりますので、昨年の振り返りや今年はどうなのかなどの記事になるかと思いますが、今回は『三和機工と私』それと『今年の目標』を書かせていただきたいと思います。私も今年ついに50歳となります。三和機工株式会社も今年、創立50周年を迎えます(ある意味、同級生ですかね!)三和機工は私が小学生の頃からお世話になっていて、とても親近感を持っています。何故かと申しますと私の母親も三和機工で働いている期間があり、幼少期の私は夏祭りや家族旅行に参加させて頂いていたからです(皆さんびっくりですよね!)

小学5年生の時にバス旅行に参加させて頂いた時の事は今でも鮮明に覚えています。バスの中でゲームウォッチを夢中になって遊んでいた私ですが後部座席でカラオケ大会が始まり、飲めや歌えや大盛り上がりの大人達を見て何だか分からなかったですが、凄い世界だな・・・と感じた記憶があります。当然ながらお酒が進むにつれてトイレ休憩の雨あられとなり、何回休憩を取るんだ!と子供ながらに心のツッコミを入れた記憶がありますが、あの時に比べると今はみんな紳士的に飲めるようになったなと感じております。また自宅が会社に近かった事もあり学生時代の通学時などは出勤途中の方が声をかけてくれたりと皆さんとても親近感を持って接してくれていたことを思い出します。そして私もご縁があり三和機工に入社させて頂きました。面接時には「大きくなったな!」と当時の上層部の方々から声を掛けて頂き幼少期の思い出を話した事を覚えています。
入社してからは、この三和新聞にも書かせていただきましたが量産製造部に18年在籍し、2011年からは営業部に配属され2020年からは営業部と総務経理部を兼務するようになりました。50年間という同じ年月を過ごしてきた三和機工は私にとって思い入れが強く、会社の成長と共に私も成長させていただきました。勤続して32年!時代の移り変わりで1世代目の先輩方から今の私たち50代世代に代わり、そして次の世代へのバトンの受け渡しがしっかり出来るように私達が指導して次世代を担う後輩たちが成長できる環境作りをしていきたいと切に思っている次第です。
話は変わりますが、年始めに皆さん今年こそは!と目標を決められる方も多いと思います。私も毎年のように目標を定めるのですが、その年が終わると結果、毎年変わらずの状態で目標も達成出来ずに終わってしまいます。50代1年生をスタートするにあたり、目標をもって行動していきたいと思います(かれこれそう思ってもう何十年も同じような・・・)今年の目標をここで掲げる事で有言実行をしたいと思っています。まず趣味の所では先月もO課長のウルトラマラソンの記事がありましたが、私はウルトラまではまだ自信が持てないのでマラソンを続ける事と『サブ3.5』を達成したいと思っています。サブ3.5とはフルマラソンを3時間半、切って走る事です。計算すると1kmあたり4分58秒で走らないといけない事になります。私の経験からして最低でも月間200km以上走る事と、ある程度のスピード練習をしないと達成が出来ません。一般ランナーの中でも達成出来る割合は約1割となります。私の自己ベストは3時間40分なので、あと10分!今年こそは達成できるよう頑張りたいと思っています。マラソン練習の一環でトレラン(トレイルラン→山を走る)やマラニック(マラソンとピクニック)、登山など楽しいイベントを今年はやっていきたいと思いますので、興味のある方は一緒に楽しみましょう!
次は健康についてです。20~30代で健康に気を使っている方が増えてきているとよく耳にします。皆さん健康には気を使ってくださいね!私も今年は血圧を下げる努力をしたいと思っています!数年前から毎回、健康診断では高血圧と診断されています。まだ薬まで飲んでない状況ですので今年の健康診断では何とか正常値まで戻せるようにしていきたいと思います。何か良い方法があれば皆さん教えてください!最後はコミュニケーションをとる事です。仕事やプライベートでも話し合える環境作りをしていきたいと思います。今年の皆さんの目標はどうでしょうか?目標がないと前へ進むことも出来ませんが、やるもやらないのも自分次第ですから、今年1年!自分の目標に向かって突き進んでいきましょう~♪
第287号 NO LIMIT!
第287号 NO LIMIT! |
writer:太 田 敏 浩
12月は陰暦で【師も走る】と書いて『師走(しわす)』と云われるように本格的なマラソンシーズンの到来になります。(師走の由来には諸説あります)マラソン大会に参加する目的は
【1. ストイックにタイムを追い求める】
【2. とことんエイドステーションを楽しむ】
【3. コースや景色を楽しむ】
といったところが周辺でよく聞く話です。私のマラソン大会に参加する目的は前述の3項で比較すると3>1>2の順になります。

秋になってコース重視で10月に横浜マラソン、11月に千葉アクアラインマラソンに参加しました。横浜マラソンはランドマークタワーをスタートして『みなとみらい』→『山下公園』→『首都高速』→『赤レンガ倉庫』を結んだお洒落なコースでした。首都高速の料金所をランニングで通過できるのはマラソン大会ならではの醍醐味でした。折り返し地点から見えたランドマークタワーの小ささに絶望した記憶も今ではいい思い出です。千葉アクアラインマラソンは2年に一度開催される大会で木更津からアクアラインを走って『海ほたる』で折り返して木更津の街中を走るコースです。アクアラインからはランニングしながら東京湾が見渡せて、これまたマラソン大会ならではの体験が出来ました。練習不足で海ほたるを折り返してからは景色を楽しむ余裕が無くなったことが残念でした。いずれの大会も夏の練習不足でタイムはベストに遠く及ばない結果だったことを付け加えておきます(泣)
そんなマラソンへの取り組みの中で今年の重大ニュースは【ウルトラマラソン】(42.195kmの距離を超えるマラソン)に参加したことです。お客様のランナー仲間に誘われて『富士五湖ウルトラマラソン』と『飛騨高山ウルトラマラソン』に参加してきました。ウルトラといえば聞こえがいいですが参加したのはビギナーコースで富士五湖ウルトラマラソンは五湖ではなく実際は三湖で62キロ、飛騨高山ウルトラマラソンは71キロです。フルマラソンが余裕で走れるわけでもないのに何故、参加したのか。それは長くても6時間程度で終わってしまうフルマラソンに物足らなさを覚えていたからです。ウルトラマラソンならより長時間楽しめる(苦しめる←ドⅯか!)と前々から興味がありましたが雲の上の大会だと思っていました。しかし実際に参加して完走した方に体験談を聞けたことで恐怖心を好奇心が超えてしまいました。
さてウルトラマラソンですが何とか楽しめるのは30キロまでです。そこから半分以上の距離を禅問答のような自分との闘いが続きます。歩くのも辛い中、それでも前に進むのは周りにゴールを目指す同志がいることです。周りのランナーの頑張りを励みに気合を入れ直して走り出します。すると自分の限界を超えたと思っていても、まだまだ走れる自分に驚きました。歩きと走りを繰り返しながら段々と歩く比率が上がっていきますが、足が痛くてたまらなくても我慢して走ると乳酸が散って楽に走れる時間が訪れます。今までの限界が限界ではなくなった瞬間です。ウルトラマラソンに参加してよかったことは自分の限界は、まだ未知数だということが実感出来たことです。そして何よりランニングフォームを崩さない体つくりが大事だということです。
正しいフォームは正しい姿勢からということで、まずはデスクワークで陥りがちな『反り腰』と『猫背』の矯正です。反り腰を直せば普段の歩きが楽になるし、猫背を直せば呼吸が楽になって酸素がたくさん摂取できるので元気が出ます。皆さんも騙されたと思ってやってみてください。そして最大の敵は自分の脳です。「痛いのは気のせい!」コレは森脇健司さんのセリフですが、脳は自分を守るために【限界スイッチ】を押しがちです。それを気のせいにして振り払う姿勢を身につけたいものです。脳トレって大事!
ウルトラマラソンに参加して【走ること】と【機械を作ること】は似ているところがあるなと感じています。与えられたパーツをいかに無駄なく動かすかは自分の体も機械の装置も同じです。上手くいかない場合は改善して作り上げていかなければなりません。その道程が辛くて苦しい程に上手くいった時の感激はひとしおです。これからもエンジニアの端くれとして【走ること】も【機械のこと】もパフォーマンスの限界を探求していきたいです。そんなわけで今シーズンは飛騨高山ウルトラマラソンの100キロにエントリーしました。来年は胸を張ってウルトラランナーだと言えるように限界の高みを目指したいと思います!!
第286号 THE昭和!15の夜♪
第286号 THE昭和!15の夜♪ |
writer:新 妻 吾 郎
最近TV番組で『令和⇔昭和』と、韻を踏んでいるせいなのか?『平成』を飛ばしてフィーチャーされる事が多いように思える。それは当時、流行した楽曲はモチロンの事!『昭和あるある&昭和では当たり前』のような文化や様々な『昭和』という時代の様相が今の世代にショッキングでもあり、また面白いからであろう。そんなTVを観ると「あ!そうそう!懐かしぃ~♪」と思い出に浸る。さて今回は『THE昭和!15の夜♪』と題してみた。『15の夜』と聞けば『尾崎豊』さんをスグ!思い浮かべられる方は、間違いなく昭和生まれの方だろう。私も彼のデビュー当時、1983年12月1日にシングル『15の夜』とアルバム『十七歳の地図』にドンピシャに、どハマりして中高の教室の机に乗ってはモップをスタンドマイク代わりに熱唱したものである。…もう41年も前の話なんやなぁ…

「盗ぅ~んだバイクで走り出す♪」というサビの、今で言う『キャッチ―』な歌詞は当時の若者の心を鷲掴みにした。間違いなく私もその一人である。しかし当時の私の移動手段と言えばバイク…と言っても『原動機付自転車』いわゆる『原付』だった。つまりは50㏄のスクーターバイクである。コレが来年の2025年『道路運送車両法』の改正により『新基準原付』となる。細かい改正は端折るが、簡単に言えば50㏄が無くなっていき125㏄が主流になるという事である。って、事は『二段階右折』もなくなるの?125㏄なら『2人乗り可能』なの?と憶測が飛ぶが、これは総排気量よりも最高出力(簡単に言うと馬力)の問題のようで、それぞれに細かい規定があって…面倒な話になって来るので~もう割愛する。
尾崎豊さんがデビューされた1983年に時を戻そう。冒頭、お伝えした様に41年前の私は15歳だった。ご紹介した歌詞の様に「盗ぅ~んだバイクで走り出す♪」を、私は『地』で行っていた。つまりは「盗ぅ~んだバイクで走り出していたぁ♪」…である。もう41年も前だから…エエやろ、と勝手に判断。昔のスクーターバイクはとても【直結方法】が簡単だった。『直結』とは、つまり~鍵(キー)が無くてもエンジンをかけられる事であり…「盗ぅ~んだバイクで走り出す♪」事が簡単であり、しかも!ノーヘル(ヘルメットを被らない)でOKな時代であった。まさに【THE!昭和】である。当時…犯した私の罪は41年経った今よりも前から、海よりも深く反省している限りである…。
さて、その当時!何故か千葉県なのに『東京~なんちゃら』なるモノが出来る!と噂が流れて来た。噂を聞いたら『百聞は一見に如かず』である。我ら精鋭?5~6名?は、まさに「盗ぅ~んだバイクで千葉まで走りぃ♪」出していた。モチロン『原チャリ』なので高速ではなく下道を時速60キロ!アクセル全開で凍てつく真冬の闇夜を駆け抜けて行ったのである。目的地に到着すると~ココが目的地なのか?というほど暗く、埋め立て途中なのか?…本当に合っているのかさえも分からなかった。単なる工事現場の一角を匍匐(ほふく)前進で入り込み足場が組まれた所を登って行き「ココでイイんだよね?」と確認し合うも誰も分からず…取り敢えず拳を夜空へ突き上げて「やったー!」と叫んだ瞬間!サーチライト(懐中電灯の大きいヤツ)を当てられて「ヤバい!」…また、そそくさと匍匐前進して帰って来たのである。暫くして、その千葉にある『東京~』のテーマパークは開園した。開園してチョットしてから正規なエントランスから当時1デーパスポート3,900円をちゃんと払って入園した。←当たり前。パーク内を少し歩くと…あれ?っと…見たことあるシルエットが目の前に。それは…【宇宙の山】だった。アレ…だったのかぁ~という『15の夜』だった。
今や大阪にあるテーマパークと千葉にあるのに『東京~』はチケット代も高騰し続けファストパスも無くなり【世の中、金や!】と言わんばかりに、あれ?【夢の国】はドコ行っちゃったの?状態である。…さて『夢の国』を荒らした?私が言うのも、おこがましいが…『夢の国』を作られた偉大な偉人の名言に次の言葉がある。『ディズニーランドは永遠に完成しない。未完成である。何故ならば、この世界に想像力が残っている限り成長し続けるからだ』と。荒らしておいて、本当になんだが(大汗)…あやかりたい。
第285号 奇跡の一本松
第285号 奇跡の一本松 |
お盆に私の母方の伯母が山形県と宮城県で入院しているので家族を連れて、お見舞いに行って来た。やはり8月の東北も酷暑だった。そのついでに岩手県にも足を延ばしてみた。このリアス式海岸地域には色々と思い出がある。以前の三和新聞でも書き連ねたが大学時代にママチャリで北海道から東京まで帰り、行く先々で人に助けられた事。今から13年前に起きた『東日本大震災』で物資を愛知県から宮城県まで送り届けた事。(三和新聞 第33号・第124号)自分の文面を読み返して「あぁ…そうだったなぁ…」と感慨深いものがある。今回はそんな過去を振り返りながら、前へ未来へ進もうと思う。

同じ新聞の第33号『小さな冒険』の中で詳しく書いたロハ(無料)のキャンプ場で大人の方々に飯を御馳走になったのは、岩手県の『明戸(あけど)キャンプ場』である。あの懐かしい景観に出会える♪と胸の高鳴りを抑えつつ行ったのだが、景色は一変していた。素朴なホントに何もないキャンプ場が綺麗に整備されていた。管理人の方に伺うと「東日本大震災でねぇ…ここも被災して全部、建て直したんですよ」と。そして「陸前高田の一本松が有名だけど明戸にも津波を耐えた一本松があるんですよ!」と。被災前は二本松で並んで立っていて『夫婦松』と呼ばれていたそうだが、被災し一本は流され『明戸の一本松』となった様だ。
三和新聞 第124号『心は、ひとつ!』は是非、三和WEBのバックナンバーで読んで頂きたい。ただ稚拙な文面で、お恥ずかしい限りだが。(今もあまり変わらんが…)明戸から南下して陸前高田の『奇跡の一本松』にも会ってきた。それは『津波復興祈念公園内』に佇(たたず)んでいる。私が、ここを訪れるのは2回目だ。もうすぐ9歳になる長女には、13年前ここで何が起こったのかを全て話した。娘は娘なりに理解をした様で、ずっと泣いていた。私は七万本の松原に大津波を受けても、たった一本だけ残った奇跡の松をジッと見上げながら、震災当初にこの地を訪れたことを思い出し…どんなに困難が押し寄せようともグッと地面を踏み締めて一本松の様な強く揺るがない心を・・・・・と、誓った。 « Older Entries