【三和新聞】220号

2019-04-30
第220号 青年部ありがとう!そして・・・

writer:  新 妻 吾 郎

 さて!『令和』である。何故『三和』じゃないんだ!?と思ったのは・・・私だけだろう。しかし何の因果か?『令和』最初の三和新聞担当である♪多分、新元号になる前に・・・子供も産まれているんじゃないかなぁ~?と思いつつ、節目の三和新聞!STARTである♪

・・・先々月の3月中旬!私は【豊橋商工会議所 青年部】を卒業した。半世紀も生きて『青年部』で『卒業』もないが・・・コレもひとつの節目として、ゴールテープを切らせて頂いた。会社をはじめ青年部(YEG)のメンバーに深く感謝申し上げる。たった5年間の青年部生活だったが、内容の濃いぃ~経験と時間だった。5年間という年月は~留年した大学生活とドンピシャの5年間・・・感慨深いモノが有り、一生ものの【仲間】も出来た。この歳になって、そんな【仲間】が出来るなんて・・・この上ない幸せである。

2014年に入会したのだが~私は多少の不安や緊張と共に、何か清々しさを感じていた。それは何故か?三和に入社してからは、ずっと『二代目』という~ある意味、呪縛めいたモノ?が解き放たれ『新妻』ではない『吾郎』だけで勝負が出来たからである。・・・解って頂けるかしら?とにかく!ひとつの『重み』をチョイと置いて~入ることの出来た新しい世界だったのだ。ただ『吾郎』で勝負するも豊橋には、とぉ~っても偉い『吾郎さん』という字が全く同じ方がいらして・・・「吾郎ちゃん、なんて呼べないよぉ!」というのが、青年部みなさんの第一声であった。しかし、まぁ~ちょっとしたら皆に呼んでもらえるようになり、ホッとした次第である。ド偉い吾郎さんともお会いする事が出来、今では「吾郎さん!」「吾郎ちゃん!」と呼び合わせて頂いている。

入会後、最初の委員会はビジネス系の委員会で・・・『炎の祭典』や『ええじゃいか』といった継続事業も大変だと思うが、私は単年度事業の【何もないところから何かを生み出す事業】だった・・・思えば5年間、ビジネス系のみの委員会であった!入って2年目、私は事故って死にかけた。そして3年目『広域交流委員会』の委員長を仰せつかったが事故後の体は~まだ思うように動かない上に顔面神経麻痺と帯状疱疹にもなって、はじめてのSTAFF会議は市民病院の病室でおこなった。・・・正直、気力も疲れ果て~副委員長たちに『委員長辞退』を申し出たが、その時のみんなが「辞めないで下さい!」「頑張りましょう!」「必ず!支えますから!」と叱咤激励してもらい・・・なんとか奮起して【東三河大交流会】なる事業を成し遂げることが出来た。今やこの事業は豊川YEGから蒲郡YEGと受け継いで頂き、単年度事業から継続事業となり今年度また豊橋YEGが担当となり・・・チョットしたムーブメントを起こせたようで、嬉しい限りであり同委員会の皆に感謝して止まない。

 また、バイク&サッカー&フィッシングと各同好会に所属し、現役とOBとの垣根が取れた【繋がり】が構築され、豊橋から東三河・・・愛を知る愛知県って、こういう風に動いているのだと納得した。それは街の正面玄関から横丁の奥深さ、そして裏側に至るまで色々な事を多角面的に知る事が出来たのだ。それは【人と人との繋がり】なくしては知り得ない事である。そんな仲間たちを、会社の仲間たち同様!一生大切にして行きたいと心の底から思う次第である・・・・・感謝。  

 さて、話しは~いつもながら?急展開するが~冒頭↑子供も産まれているんじゃないかなぁ~?と書いたが~産まれました♪←えーっ!この書いてるうちに!←ンな事あるかぁーい!どれだけブツ切りに書いとんねーん!←書き直したんじゃーい!と、ひとりボケツッコミしつつも~4月25日!長女ひまりと同様!立会希望ではなかったハズなのに~何故か7時間チョイに渡る分娩室で妻と一緒に、もがき苦しんだ末!51.0cm~3302gの【将吾】と書いて『しゅうご』と読む【宝】が誕生した♪その将吾を抱きかかえた時!またひとつ、私の全身に燃えたぎる【力】も誕生した事は言うまでもない。

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