【三和新聞】142号

2012-10-01
第142号 30年
writer:小林 清

早いもので三和機工に入って30年が過ぎようとしている。30年という年月は、一般のサラリーマンにとって人生70~80年とすれば、ほぼ半分は会社勤めということになる。30年も会社勤めをすれば、その人の人生は会社の一断面に通ずるものだといっても過言ではない気がする。この事は自分だけでなく、この後サラリーマン人生を送る若い人達にも考えさせられる事ではないかと思う。この後サラリーマン人生を送らないで独立等の夢を描いている方には失礼かとは思いますが・・・。

10月【第142号】 30年

現在は営業の肩書きで客先回りをしているが、入社当初は転職前の会社で機械設計の業務に就いていたので社内では機械設計を主に行っていた。考えてみると数時間で終わる小さな仕事から半年以上も続く大きな仕事、次から次へと仕様が変わる連続的な仕事など様々な業務に携わってきた。多くの人と出会い、多種の業務に携わった事が今の自分には良い経験になっているのではないかと思う。入社後すぐにS社の生産技術センターに出向。VTRの加工設備の設計業務を行い、その後は同じVTRの組立設備や測定設備等の設計応援で数年を過ごした。この時期に設計した設備で生産した製品は数年後にはS社の中核をなす製品になって行く。設計応援のみでは会社としては利が無いとの指示で、設計した設備を三和内に取り込むような営業活動をとの事で、設計応援の片手間に営業の仕事も行うようになる。

VTR設備のラインも一段落した数年後に、S社の厚木工場でブラウン管の設備設計製作が出来る会社をとの要請で、私に設計応援の白羽の矢が立った。当初のブラウン管といえば20インチ前後が主流であったが、VTR製品と比較しても扱う製品自体が大きく、生産台数も多種に渡りマシン台数も非常に多かった。自分としては出来るだけ1ライン中多数台の設備受注にとの思いがあった中、露光台と着脱機が多数台との事で候補に絞り、露光台の受注にこぎつけた。厚木工場が主に海外工場向けの設備調達を行っていた関係で、手始めにシンガポール向けの露光台設計に着手。その後小型管から大型管、平面管へとブラウン管の需要が変化し、受注は右肩上がりに伸びて行った。ブラウン管の設備需要がバブルのはじけるまでの10年近く続く事になる。この頃の自分は出張続きで社内にいる方が短いくらいで、S社のロビーに座っているだけで次から次へと仕事が舞い込む。海外設備の為、仕様の打合せ、立ち上げ、検収打合せ等でシンガポール、イギリス、アメリカサンディエゴ、ピッツバーグと出張続き、自分も周辺もまさに1990年代のバブルの時期だった。その後、本社勤務で3年ほど製造畑を単身赴任で経験する。物造りの仕事は設計と違い、QCD+社員管理+外注管理と奥が深いことを実感した。この時に先代の社長に言われた「生きた金を使え」が忘れられない言葉となっている。

本社出向も終了し、バブルがはじけた後の影響も少しずつ薄くなり国内の仕事も戻りつつある時に、S社のニュービジネス部門発足の一環として、携帯電話用のCモジュール組立検査装置の試作装置を作りたいので、設計の応援を頼めないかとの要請があった。試作治具製作後の評価も終了し、量産装置製作に向けて進むことになった。バブル後の環境の変わる中での装置ということもあり、半自動の設備が主だった。Cモジュールの生産台数は携帯電話の普及台数に伴い、多いときは1機種で数十万台に上る為、設備台数も1機種20台、30台と非常に多かった。今でこそ携帯電話はスマホに変わり、衰退する運命にありそうだが2000年代前半の普及スピードには目を見張るものがあった。装置も携帯電話の普及スピードに合せて設備して行く事になる為、夜遅くまで残業したことが思い出される。今までの30年間を考えると、第1次及び2次の石油ショック、バブル崩壊、リーマンショックと大きな波にもまれながら、凹凸を繰り返しながら生きてきたことになる。会社の行き方も人の生き方、すなわち人生に通じるものであると思う。いつも『今』を一生懸命に生きることが一番かな・・・。

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