第274号 かんじんなこと

2023-10-31
第274号 かんじんなこと

writer:彦 坂 訓 克

 母親が他界して親父1人と隣同士で住むようになってから数十年になりますが、我が家での夕食は一緒に食べるようにしており、夕食の支度が出来ると連絡して親父がトコトコやって来るというような具合です。最近の事ですが、家に来るなり「だいぶ、早い時間からこっちに向かって来る様になって来たな~」…共感を求める様に言い出してきた。なにが?全く何の事を言っているのかわからない。「何がどこから向かってくる?」って聞くと「向かいのサッシ屋の屋根の向こう方から四角の…、光って…」うまく説明できずにアレとかソレとかばかり。今も見えると言っているので何か飛んでいるのか思い、私と妻は外に出て夜空を見渡しました。それらしい物体は無く、何も見えなかったと伝えると親父は「あれが見えないのか?」って、納得していない様子ではありました。

  親父に見える【物体】が何なのかが知りたくなり、次の日の夕食時に今も見えたのか聞いてみた。もちろん今も見えて「畳2畳分の大きさでそれが四方に光っていて4人くらいは乗れる。それが向こうの屋根の上の方からこっちに向かって来て、すぐ前の電線の所で消える!」って説明してくれたのですが…(←全く何かわかりませ~ん!?)帰り一緒に外に出て夜空を見上げ、親父は指を差しながら「あれが向こうの方からこっちに来る、前はもっと高い所から来ていたが最近は低い所を通ってくる。」と。指差す方向にはもちろん物体は無く、一点の輝いている星が見えるだけでした。姉にも確認して貰いましたが、親父の説明には全く違いは無く、見える物体にブレは有りませんでした。

  親父は高齢ということは勿論ありますが、過去2度も『脳梗塞』が見つかり入退院を繰り返しています。その影響も有り2度目の脳梗塞から退院した直後は認知症が進み、酷い時にはテレビのリモコンと携帯電話の判別が出来ない。電気ポットのコンセントで携帯充電しようとしたり、車を家の前の道で駐車したり(←運転は即刻辞めさせました!)という有り様でした。しかし退院してから薬を飲んでいない事がわかり薬の飲用を続ける事で、今では時折何をしているのか解らない事とか、家族の名前がわからない程度の事は有りますが、日常生活で困るほどの認知症状は無くなっています。(割とシッカリしています)幻覚や幻視をいろいろ調べて見ると『人に関する幻視症状』(包丁を持った人が襲ってくる)や『動物に関する幻視症状』(ネズミが天井で走っている)とかが多いようで、決まった形の物体が見えるような症状は確認出来ませんでした。幻視には間違いないのですが、親父が毎日見える星が、畳2畳分の大きさでそれが四方に光っている様に見えている幻視には何か意味があるのでしょうか?

 小説『星の王子さま』の一節にある言葉ですが【心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ】と有ります。ただ目に映るものが必ずしも大切な事や真実とは言えないという事を言っているのだと思います。ものごとを正しくものを見ているつもりでも、自分にとって損とか得とかという自己中心的で自分勝手な見方で見たりして何が本当で何が偽りなのかを見極めることができ無くなってしまいます。どのような『思い』で見るかが大事なのでは無いでしょうか?目に見えるものばかりに心が左右されてしまい、大切なものを見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに気付かなくなってしまっているのでは?と思います。

 かの有名なアインシュタインの【自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない】という名言を恥ずかしながら最近知ったのですが、自分の目できちんと見ること。そして、自分の心で感じること。この2つを押さえないと、いいモノを作りだすことはできないという事の様です。現代はデータ社会で日々いろんなデータを目にしていますが、数値ばかりを追いかけて目にうつるものだけで判断するのではなく、どのような『思い』でそれらを見るかを大切にしていき、いいモノ作りが出来るようにしていかなければいけないのでは無いかと反省させられます。『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ』親父にとって心で感じて見えている【光る畳2畳】は、きっとかんじんな物なのでしょう・・。

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