第273号 私の履歴書

2023-09-30
第273号 私の履歴書

writer:小 谷 野 一 彦

 日経新聞の最終面に【私の履歴書】のコラムがあり、その人の半生が1ヶ月にわたって書かれていて、今回は少しそれを真似て・・・オマージュして書き進めたいと思います。

  1964年12月30日!愛知県は、この豊橋の地で私は生まれた。3つ上の姉がいたが父は「なんとしても男の子が欲しい!」と、神社に足を運んだ際は男子を授かるべく願掛けは当然で、こちらを通ると男が産まれるという神話を信じ行動するほどに男子を希望していたようだ。そしてその願い通り私が産まれ、名前は【一彦】と名付けられた。【一】の意味はとにかく一番になれ!を望んでいたようである。私の気性としては今も負けん気が強く『人に勝ちたい』『人より前に出たい』という気持ちがあり、思い通りとはいかないが少しはその願いに応えられているのではないかと思う。【彦】は単純に自分と同じ一文字を付けたのだと思うが、ネットで【彦】を調べると『男性』を上品に呼ぶと『彦』となるようだ。残念ながら「品が無いなぁ~!」と言われた事が一度や二度ではないので、こちらは残念ながら望み通りとはいっていない・・・。

  家庭環境としては、私が成人過ぎの頃まで父母共に『養鰻業-ようまんぎょう-』の仕事をし、住み込みの形であったため隣に親方家族が住んでいるという環境であった。父も母も常に親方に気を使って生活している事を、幼少の頃すでに感じていた。親方含め4家族が共に一軒長屋的な環境で暮らしていたため、今NHKで放送中の朝ドラ『らんまん』で庭に出て複数家族が一緒に食事するシーンは、とても懐かしく感じる。そんな我が家は玄関を開けると目の前にはウナギの住む養鰻の池が広がり記憶はないが2,3歳の頃から、その池でウナギと一緒に泳ぎ、そのおかげか小学2年生で25m泳ぐことが出来た。これは当時通った小学校の最年少記録で、その証としてもらった黒いラインを母が水泳帽に縫い付けてくれた。先生からも褒められて、とてもうれしかった記憶がかすかにある。そんな風にいつでも泳げる特殊環境であったため、夏休中はずっと長屋の仲間と一緒にウナギに嚙まれながら泳ぎ遊び、おかげで半端ないほど日焼けし夏休み明けの日焼け対決では負けたことが無い。そんな生活で学業はまったく駄目であったが、同じ暮らしをして一緒に遊んだ他の子は成績優秀だったため、どこでどういう勉強をしていたのか?いまだに解けないナゾである。

 中学にあがり選んだ部活は当然『水泳部』その当時、室内プールなんてものは無く桜咲く頃の水泳練習は30分程度であったが全身が冷えて唇が紫色になっていた。暖かくなるにつれ練習量はどんどん増え、大会前には一日10kmを超えた。私が通った中学は市内で一番強かったが、それは練習量に比例していたと思う。『200m平泳ぎ』が私の種目で、1年は市内大会の新人戦優勝!2年3年とも市内大会優勝の3連覇を果たした。しかし東三河地区大会では惜しくも2位に甘んじ、父からは「だらしない!」の一言・・・予想もしていない叱責は、あまりにも悔しく父に憎しみを覚えるほどであった。県大会にも出場し5位と入賞はしたが全国大会には出場できず、水泳に打ち込んだ日々は中学3年の夏で終了した。そして受験勉強に専念と書きたいところだが『思春期特有の気になる事』で頭がいっぱいで・・・学力相応の高校に進学となった。

 入学式で初登校して目に入った上級生は、もう帰りたい!と思うほど恐ろしく・・・不〇学生の吹き溜まり『ビーバップハイスクール』そのままであった。しかし、すぐに慣れて数か月で私自身もビーバップな学生に変身した。もめごとは日常茶飯事の学校であった。ある日、学校から母が呼び出された。もめごとの渦中の生徒・その親・先生、総勢10名ほどだっただろうか。原因は【私】という事は明白で・・・おさまりが付かないと判断した母は椅子から降りて床に土〇座をした、とっさに私もそれに倣ったが、訳が分からず涙が溢れた。今では笑い話にしているが、母にさせたその時の事は今でも申し訳ないと思っている・・・。今回はここまで。次回はその後の高校生活からと思っているが、人様にお話しできる内容とさせられるのかどうか・・・?  

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