【三和新聞】146号

2013-02-01
第146号 ありがとう!本社工場
writer:加藤 憲男

立春の候、ますますご繁栄のこととお慶び申し上げます。さて、葉書にてご報告いたしたと存じますが、今月いっぱいで本社が豊橋に移転となり、東京の工場は閉めることに成りました。こんな時に順番が回ってきたのも何かの縁かと思い、昔の話を書きたいと思います。私が三和に入社したのはもう32年前の、高校を出てちょっと経った7月のことでした。当時はまだVTR戦争が始まった頃で、ベータかVHSかと騒がれている時でした。当時ベータのドラム加工を24時間稼働でしていました。そんな中、入社した私は最初に専用機の組立場に配属されました。当時組立には浅沼さん、伊東さん、菅野さんとリーダーがいて、その中の菅野さんの下に配属と成りました・・・。

2月【第146号】 ありがとう!本社工場

初日は小さな治具の組立を行い、翌日来ると菅野さんは来ておらず?何をすればいいかわからないでいると近藤さんが声を掛けてくれて「来るまで俺の仕事を手伝ってくれ!」と、言われ手伝っていました。そんな感じで1週間くらい経った頃、当時の三宅専務に突然呼ばれて行くと、そこに平塚さんがいて「平塚がお前のことを俺の下にほしいと言っているのだがどうだ?」と言われました。こちらとしてはまだ右の左もわからない状況で「どうだ?」と言われても「わかりました。」と言うほかなく・・・翌日から平塚さんの下で働くようになりました。仕事内容はマシニングでの加工でした。当時はまだマシニングが1台しかなく品物の脱着方法と簡単な操作方法だけを教えられ「これでやれ!」と言われてやっていました。「機械が動いている間はヒマだろうからこれを読んで勉強しろ!」と言われプログラムの作成方法の取説を渡されました。高校の実習でNCを少しやったので基本的なところはある程度理解できたので実際のプログラムを見ながら覚えました。当時はまだマシニングでやる物も少なく月に半分あるかどうか位だったので加工する物がない時は客先や外注に連れて行ってもらったりしました。そのうち2台目の機械が入り1人で2台の機械を使っていました。その翌年3月には豊橋工場が出来上がり平塚さんをはじめ、一緒に仕事していたほとんどの人達は豊橋工場に移っていきました・・・。平塚さんとは8ヶ月くらいしか仕事できませんでしたが、この間にいろいろな事を教わりました。豊橋工場が出来てからは機械の操作は別の人にやってもらうので生産管理・生産技術の仕事をやることになりました。その時にマシニング担当になったのが横谷さんで、それまでマシニングを使ったことのあるのが私しかいなかったので教えることになりました。当時は何とも思わなかったのですが、今思うと仕事とはいえ20才前の小僧が40才過ぎの方に教えるということで・・・よく我慢してくれていたなと思います。また当時NC旋盤のプログラムを作れる人がいませんでした。マシニングのプログラムを作っていた私にNC旋盤のプログラムも作ってくれと言われましたが、まだNC旋盤に触ったこともなかったので「出来ません。」と言うと「マシニングはXYZと3軸あるだろう。旋盤はXZの2軸しかないんだ。軸数が少ないのだから出来るだろう!」と、訳の分からないことを言われました。やるしかないので現在のプログラムと取説を見ながら勉強してなんとかプログラムを作成しました。その後専用機の部隊が豊橋工場に移り本社は部品加工のみでやってきましたが、その機械もすべて豊橋に移管されて行ってしまいました・・・。

本社工場に一番長く居た私としては、ここがなくなるのは、とても寂しいことですが・・・時代の流れの中で仕方ないことなのでしょう。昔の様に仕事が有り余り、何時間でも残業しろ!という時代でもないので、その時代に合った仕事のやり方をしていきたいと思います。今回の本社移転が、三和機工全体の『強さ』となる事を信じ、1つの節目としてこれからも頑張っていきたいと思います。

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