【三和新聞】171号

2015-03-01
 第171号 心に刻まれた言葉
writer:  杉浦 秀幸

私も44才となり人生の半分ぐらいは過ぎました。その内の17年は三和機工にて過ごしております。17年間皆さんの支えがあってここまで成長できていることは感じておりますが、三和機工に入社する前に親父と4年間左官をしていた頃の経験が、今の自分を支えてきていることも大きいと考えております。今回はその時のことを紹介したいと思います・・・。

平成元年に高校を卒業する頃はまだバブル期だったため、求人の募集は1人10社以上あり、選びたい放題!今の学生からすれば羨ましい時代で、何の苦労もせず一流企業に就職することができる、そんな時代。私もそんな時代の波に乗り一部上場企業に就職することができました。しかし・・・働き始めて4年が過ぎる頃には大企業での平凡な会社生活に嫌気がさし『辞めたい』と思うようになりました。いずれ自分が親父の後を継いで左官になる!と考えていたので会社を辞める相談をしてみました。私は親父が喜んでOKしてくれると思っていたのですが、返ってきた言葉は私が想像していた答えとは違い、喜ぶどころか“世の中そんなに甘くないぞ!”と反対されました。軽い気持ちで自営業の道に進もうと考えていた私の心の中を見透かしていたのかもしれません。何度となくぶつかり話し合い、説得して、何とか左官への修行が始まったのでした。

左官という職業はコテを使い壁や土間を塗ったり、またタイルを張ったりします。初めは当然コテなどは持たせてもらえず、仕事といえば材料となる砂や1袋40kgもあるセメントを運ぶだけでした。痩せている私には体力的にかなりきつかったです。親父は仕事にはとても厳しく(お袋にはもっと厳しいです)タイル張りなど細かな作業は自分が気に入るまで何度でもやり直していました。私が見るとほとんど変わりない様に思えるのですが“御施主に満足してもらうには自分が満足しないとダメだ!”と夜遅くまで作業をしていることもありました。自分の仕事に手を抜くことをせず一切妥協しない頑固な面を持つまさに典型的な職人気質な人でした。そんな頑固な親父なため私と意見がぶつかりよく喧嘩をしていました。当時は師弟関係であったにも関わらず、言いたいことを言い『自分の意見が正しい』と主張する私に対し、親父も相当腹を立てていたことでしょう。でも、未熟な私に真剣に向き合い厳しく接することで仕事に取り組む姿勢を教えていてくれていたのかもしれません・・・。

しかし、残念ながら私がやり始めた頃から住宅様式の変化や建設工期の短縮化の流れから、壁の仕上げには塗装やクロス等が増え左官の仕事が減ってきました。結局、左官の収入だけでは妻子を養うことが難しくなり、4年間で左官業を辞めることとなりました。親父は私が辞めた後もお袋と二人で細々と続けていましたが、仕事での無理がたたり、体調を崩し60才をまたず引退をしてしまいました。やはり健康でなければ仕事を継続することはできないのです。朝から酒を飲み仕事に行くメチャクチャな親父でしたが、一緒に仕事をしたことで多くのことを学びました。その中でもとても心に刻まれている言葉があります。仕事がなく、休みが多くなっている時に私が“仕事を探してきて欲しい!”と言いました。その時に親父は“仕事をやるのは簡単だ。でも利益を出すのは大変だ!そんなに言うならお前が仕事を探してこい!”と怒鳴られました。その言葉を言われた時に幼い頃にお袋に連れられて行った集金のことを思い出しました。そこでお袋が“払ってください、この子たちもいるのでお願いします!”と頭を下げていました。しかしお金は貰えなかったそうです。いわゆる、踏み倒しをされたのでした。

仕事をしたら必ずお金が貰えるものだと考えていた私ですが、幼き日のあの光景を思い出しこの時始めて自営業の難しさや経営者の辛い思いを感じました。親父と喧嘩をしている時に常に“お前も大人になればわしの言っていることがわかる”と言っていました。44才になった今やっとその言葉の意味が理解できるようになり、社長が“会社を継続していくためには利益を出さないといかん!”と常に言われている言葉がすごく身に沁みます。人生残り半分もっと言葉の意味が理解できるように日々精進して参ります。さあ今日も1日120%で頑張ろう!

 

Copyright(c) 2009 SANWA KIKO CO.LTD All Rights Reserved. Design by 三和機工株式会社